【2019年1月】ミンスクの一日


こんにちは!真冬のミンスクから今回お届けするのは、長年ベラルーシ国立大学で哲学を教えるエレーナ・ドトゥコ助教授が語ったチェルノブイリの経験です。

事故当時の1986年も哲学の先生として働いていた彼女はレーニングランド(現サンクトペテルブルグ)出身です。ミンスクへ家族で引っ越してきたのが1957年。事故当時のことを振り返ると緊張した表情になります。「事故が起きた朝、私達のもとには詳しい情報がまだ届いていませんでした。住民の間ではうわさが飛び交っていましたが、彼らが爆発事故のことを知ったのは確か西側の放送、ポーランドのラジオニュースでした。事故が起こった事実にも驚きましたが、何よりも怖かったのは情報の欠如でした。当初、放射能被害の対策としてヨードをとらなければいけませんでした。」

事故後も物理学者達と放射能の危険度について議論していたエレーナさんは興味深いことを知ります。「事故直後、住民達は放射能を避けるため直感的に太陽の光を浴びないようにしていました。紫外線を避けなければならいという習慣は私のもとにも残っています。医師達が伝える情報では、余分な紫外線を肌に浴びるのは健康に必ずしも良くなく、太陽の下では服を着る必要がありました。個人的にもそれはずっと守っているし、家族にも日光浴で強い紫外線を浴びる流行を追いかけないよう諭しています。」

自分の周りで起こった被害については「甲状腺の問題が多発すると、住民の間で予防策が施されました。親戚の中に甲状腺肥大が認められた者はいませんでした。私の母がかかっていた若い30代の医者がいましたが、事故発生から二年ほど経った日に彼は亡くなってしまいました。母に聞くと、彼は事故直後に日光浴をしていたそうです。チェルノブイリ事故直後は快晴の日が続き、五月の連休になると多くのベラルーシ人が日光浴に出かけていました。放射能の被害が大きかったゴメリ州には親戚がいましたが、できるだけ近づかないように気をつけていました。親戚は、多くの知り合い、それも女性が亡くなっていくのを目の当たりにしました。」と思い出していました。

「こういった事故は二度と起こらないというのが一番の願いです。もし、原子力発電所を創設するのであれば、それは絶対に安全なものでなければいけません。」インタビューの終わりに力強くこう言うと、エレーナさんは笑顔になり写真撮影に応じてくれました。 (田中 仁)