チェルノブイリ通信135号

2024年春 福島訪問レポート

2024年3月10日~3月15日の福島訪問参加者のレポートです。訪問を通して知ったことや考えたこと、感じたことについて報告していただきました。

*報告書は修正等はせずにそのまま掲載しています。
*訪問中の写真は《こちら》で公開しています。

福島訪問マップ

田中 静瑠(大学4年生)

 私は今回で5回目の福島訪問となりました。現地の方や福島をよく知る方に福島を案内していただきながらたくさんのお話を聞き、今までとは異なる視点で福島の原状を知ることが出来ました。特に強く感じたのは「安全性への疑問」と、「福島が抱えている安全・健康という観点から離れている部分がある」ということです。現地ではどんどん復興工事が進み、新しくきれいな建物がたくさん見られるその一方で、「安全」という観点がおざなりになっているのではないかと感じてしまう部分がありました。様々な課題が複雑に積み重なっている福島の現在について報告します。

 今回は福島に到着したその日が3月11日でした。3.11当日に福島に訪問するのは初めてでした。日が暮れるころ、小高駅前で祈念のキャンドルをともしていました。私たちも火をともす作業に参加させていただき、一緒に黙とうを捧げました。「おれたちの伝承館」でもキャンドルを灯していらっしゃいました。改めて震災に思いをはせる一日となりました。

小高駅前の祈念キャンドル

 二日目は、「おれたちの伝承館」館長であり写真家である中筋純さんに案内していただいて大熊町、富岡町、双葉町を見て回りました。少し山を登ると、町の景色、そして第一原発がよく見えました。町を見回すと、たくさんの工事が行われ、常に工事の音が鳴り響いています。2021年には東京オリンピックに際した聖火リレーが行われた場所も見えました。聖火リレーが通過した道の両脇には新しい住宅が立ち並んでいましたが、その奥、住宅からそう遠くはない場所には原発が見えている景色には違和感を覚えました。どれほどの人がこの町に戻ってきて現在住んでいるのでしょうか。町を回ると、まだフレコンバッグがたくさん見られます。現在見られるフレコンバッグの中身は多くが遮蔽土壌で、比較的汚染が少ないため処理が後回しにされ、町内に放置されている状態だそうです。また、町内の住宅はそのほとんどが取り壊し工事中でした。フレコンバッグに囲まれた、取り壊し中の住宅たちを見ると、復興とはまだまだほど遠いと感じました。

高台からの景色
たくさんの新しい住宅と、第一原発が同時に見えます。

 この日は最後に郡山海岸に行きました。堤防の上を歩いていると、「この先帰還困難区域につき通り抜け禁止」の表示が突然現れました。その先に進むとさらに「ここから帰還困難区域につき立入禁止」の表示がありましたが、フェンスなどがあるでもなく、また、堤防の上にのみ表示があるため、海岸を歩いていたら気づかずに帰還困難区域に入ってしまいそうでした。

 三日目は、いわき市で原子力災害についての展示や意見交換会などを行っている「原子力災害考証館」の運営などをされている鈴木亮さん、西島香織さんに案内していただき、大熊町、楢葉町、富岡町、双葉町を回りました。最初に訪れた宝鏡寺には、事故40年前から原発に反対し続けていた早川篤雄さん・安斎育郎さんの言葉が刻まれた「原発悔恨・伝言の碑」や「非核の火」のモニュメント、原子力・核についての過去と現在を知る「伝言館」と、未来を考える「未来館」があります。印象深かったのは、「伝言館」で見ることが出来た、原発を誘致、推進していた当時の資料です。「広島の子供たちが野球で活躍しているから大丈夫」といった内容もあり、いかに「原発安全神話」がつくられていったのかを見ることが出来ました。私は小学3年生の時に原発事故が起きたため、社会が「原発は安全なもの」という意見をどれほど強固に持っていたのかをあまり知りませんでしたが、この資料を見て、現在の感覚で考えると異常に思えるほど信じられていたのだと感じました。

原発悔恨・伝言の碑

 現在福島県では、8,000ベクレルを下回る土壌を公共事業に再利用する実証実験が行われています。しかし、事故前は100ベクレルを超えるものは管理が必要なものとされていました。80倍もの数値を許容し、ましてや公共事業で全国各地にばらまくのかとお話されていました。日本は食品や建築基準など、世界的に見ても安全に関する基準が厳しいと言われることがありますが、福島で様々なお話を聞いていると、原発と原発事故の対応に関しては十分ではないのではないかと感じることが多くあります。この土壌再利用や処理水など、原発事故後の課題は福島のみが抱える問題ではないと改めて感じました。日本国民皆で対応を考えていかなければならないと思いました。

除去土壌再利用の実験場

 西島さんには富岡町の現状についても教えていただきました。廃炉による補助金で、町にはどんどん新しい建物ができ、若い人の移住も増えてきているそうです。しかしこの補助金はいつまでも出るものではなく、いつかは自立して町を運営していく時が来ます。そのとき町には何が残り、どんな町になっているのでしょうか。最終処分場になればまた補助金は出ますが、町の人々は受け入れるでしょうか。持続可能な町づくりがいかに難しいかを感じました。

 四日目には、事故後さまざまな食物の放射線量を測り続けている伊藤延由さんにお話を伺い、その後飯舘村と浪江町を案内していただきました。今回も具体的な数値とともに事故の影響についてお話していただき、また新たな気づき、新たに知ることがありました。

 飯舘村で除染が住んでいるのは村の面積の16%で、その土壌の平均は8,847Bq/kgだそうです。村の84%を占める未除染のエリアの平均値は20,000Bq/kgを超え、それに比べると除染済みエリアは低い数値ですが、事故前の農地の数値は10~20Bq/kgほどで、元の数値に戻るまで単純計算でも330年かかります。伊藤さんが採取された野生のきのこに線量計を近づけると、周りの空間の線量の5倍近い数値が計測されました。少しずつ帰還困難区域が解除されていますが、一歩山に踏み入れれば未除染の土があり安心できず、また除染済みの土地も事故前と同じとは全く言えない状況を見ると、今生きている世代にとっては「事故前の村は帰ってこない」と言えます。事故の影響の絶大さをこの数字から感じました。

 アメリカでの原発建設についても教えていただきました。アメリカでは万が一の時に備えた避難計画の作成が義務付けられており、この計画が不十分だとして廃炉になったショアハム原発という原発があるそうです。日本では、この避難計画は義務付けられておらず、実際に作成されている避難計画も、複合災害時を想定していなかったりと不十分だと感じられます。実際に能登半島の地震の際にも、半島に続く道は閉鎖してしまいました。もし何か事故が起きていた場合、周辺の住民の方々は逃げることが出来たのでしょうか。

 お話の後、車で飯舘村と浪江町の一部を回りました。飯舘村にもまだフレコンバッグが見られます。村内でも見えやすいところからはフレコンバッグがなくなっていますが、少し山間のあまり人が見ない場所にはまだたくさん積みあがっていました。浪江町と飯舘村の境目にあたる赤宇木地区では、まだ除染されていない山間部を道が通っていました。他の場所に比べても線量が高いため、私たち学生は車から降りずに待っていました。福島にはまだまだこのような場所がたくさん残っています。

飯舘村に残るフレコンバッグ

  今回は現地をよく知る方にお話を伺うことが多かったのですが、お話を聞いていて「後処理の仕方が決まっていない、扱いきれないものをどうして作ってしまったのだろう」と何度も感じました。浜通りを見て回っていると、放射線の問題がついて回る課題があまりにも多く、考えるのをやめてしまいたくなります。13年の時が経過して、問題が政治・外交・安全・風評被害など多岐にわたっていて複雑すぎるとも感じます。福岡に住んでいて物理的に遠い私たちは、このような福島の原状を見て見ぬふりして考えないでいることは簡単です。しかし、廃炉や処理水、除去土壌の問題など福島だけの問題ではないものはたくさんあり、また原発も全国各地、私たちの近くにもあります。福島と日本のこれからを考えることからは逃げてはいけないし逃れられることでもないと感じました。私個人が福島に対して何ができるのかという答えはまだわかりませんが、この訪問を通して知ること、また知ったことを伝えることは、私にできる少ないことの一つだと思いました。

平江莉子(大学4回生)

 2024年3月11日。東日本大震災発生から13年となる日に、私にとっては今回3度目となる福島訪問がスタートした。この記事では、私が5日間の中で、特に印象に残ったことについて順に書き記していきたい。

 まず、福島訪問一日目では、俺たちの伝承館に地震発生の14時46分に合わせ、東日本大震災復興祈念を行った。更に、日没後には双葉屋旅館に移動後、旅館前にて地元の住民の方々と共にろうそくの点灯を行った。(写真1参照)画像には「3.11 ODAKA 1.1 NOTO 祈り」という、ろうそくの火を使った東日本大震災と、今年1月1日の元旦当日に発生した能登半島地震への、復興祈念を込めたメッセージが表されている。

写真1

 写真だけからでは分からないのだが、実はこのろうそく点灯には、近隣住民達の諦めない姿勢や忍耐力がなければ成功できなかった。というのも、当時ろうそく点灯の際強い風が吹いており、ろうそくに火を灯しては消えるの繰り返しで、一向に文字が浮かび上がらない状況だった。ろうそくの点灯に私達も参加させていただいたのだが、途中からろうそくの火は合成でもいいのではないか。こんなに風が吹いている中では無理だと思い始め、若干諦め始めていた。しかし、そんな気持ちとは裏腹に、地元の方は全く手を止めることなかった。むしろ、「震災で被害を受けて辛い思いをした人は沢山いるのに、こんなことで諦めるなんて」というよな事を言ってる声が聞こえた。それから20分ほどたった頃だろうか、ろうそくに火がつき始め、文字も徐々に浮かび上がっていた。そしてついに全てのろうそくへ火がつき、写真のような光景を実際に目にすることが出来た。

 あの時の地元住民の人々の辛抱強さ、根気強さは忘れられない。東日本大震災が発生してまもなく「がんばっぺ」という、復興の意味を込めた東北弁のスローガンをよく耳にしたが、まさしくその言葉通りの姿勢が感じられた。時代が進むごとに技術も発展し、今やスマートフォン1つあればありとあらゆることができるようになってきている。しかし、目の前にある物事に対して簡単に諦め、技術に頼るのではなく、自分の力で解決する、解決しようとする根気強さを身につけておく必要があると、私は思った。こういった力は、今後発生するかもしれない、南海トラフ地震など、非常時に役立つかもしれない。

 次に印象に残ったのは、訪問三日目に散策した、大熊町、富岡町、双葉町の様子だ。案内していただいたのは、写真家で「おれたちの伝承館」館長の中筋純さんだ。中筋さんはまず、写真2のような、原発が見える場所まで案内していただいた。遠目ではあるが、福島第一、第二、第三原発を確認することが出来た。素朴な感想にはなるのだが、外から見ればあの原子力発電所が私達の健康に甚大な被害をもたらすだろうなんてことは、想像がつかないと思った。放射能が目に見えないように、発電所そのものも、目で捕えることはできたとしても、底から危険という言葉にすぐ結び付くような雰囲気は感じられない。だからこそ、未だまだ残されている福島原発を目にすると、被害状況との差に恐怖のようなものを感じる。

写真2

 また、この場所以外にも、写真3のような、景色を見ることができる場所にも案内していただいた。写真だけを見ると住宅も並んでおり、自然の中における生活感も感じられる。しかし、実際は工事の音が鳴り響いており、これまた景色との差に違和感を感じた。原発事故前であれば、この場所から聞こえてくるのは鳥のさえずりといった、自然音だったそうだ。事故から13年経った今も鳴り響いていたのは工事の音に対して、復興が進んでいないと捉えるべきなのか、長い時間をかけて再生していこうとしているのか、どちらで捉えるのが正解なのか、考えていきたいとも思った。

写真3

 最後に向かったのは、双葉町の郡山海岸である。堤防の先まで進んでいくと、地面に帰還困難区域による立ち入り禁止の提示が見えてきた(写真4)。地面に警告の提示はあったものの、周りに柵やゲートのような仕切りはなく、浜辺から回れば侵入できるような状態であった。私たちが普段目にする帰還困難区域による立ち入り禁止表示はほとんど看板であり、地面に直接書いてあるものは初めて見た。地面に警告があるだけで、放射能が目に見えないことに変わりは無い。この地面の表示がある境界線の前と後だけで大きな差があるようには私自身は感じられなかった。立ち入り禁止であるならば、他の帰還困難区域と同じように柵やゲートを設け、物理的に侵入を防ぐ必要があるはずなのではないか。

写真4

 侵入しようと思えば出来るようになってしまっている警告の甘さに、驚いてしまった。メディアでは復興という言葉を目にしやすいが、復興だけでなく、住民たちの安全をまず第一にするべきだ。安全性を保てていないような状況で復興だけ推し進めることが正しいと言えるのだろうか。

 最後に楢葉町にある宝鏡寺「伝言館」について触れたい。「伝言館」には多くの資料が展示してあり、福島についてだけではなく、広島、長崎、ビキニについての展示も見ることが出来た。福島原発事故発生の原因はもちろん、福島原発が何故そもそも作られることになったのか、原発の神話性がどのように人々に浸透させられていったのか、資料を通して理解することが出来た。驚いたのは、展示されている資料の数と種類だ。以前の訪問で訪れた「東日本大震災・原子力災害伝承館」と比較しても、引けを取らないほどであったことに加え、展示する内容にかなり差があると感じた。というのも、「伝言館」はどちらかというと、原発事故発生の原因を、今までなされてきた東電や政府の杜撰な政策にあることを訴えていた。また、長崎や広島の原爆についての展示もされていたことで、核というものがどれほど恐ろしく、どれだけの被害が出てしまうかを全面的に出していたように感じた。

写真5

 一方で「東日本大震災・原子力災害伝承館」の展示内容は、原発の仕組みや、事故が起きてしまった時の原発の状態がどのようなものであったのかを詳しく説明している印象が強かった。ここに政府や東電、そして地元住民の人々との間に大きな差があるのだとはっきりわかった。たしかに、「東日本大震災・原子力災害伝承館」では語り部の話を聞くことが出来るスペースもあれば、原発神話の崩壊といった、原発事故を人災と記載されていた展示があったのも確かだ。しかし、「伝言館」程の印象は残らなかったように感じる。「伝言館」は隣に「未来館」という、同じく原発反対を訴える展示がなされている建物も並んでいてのだが、両方の館を見ることで、私たちに真実を訴え、二度とこういった事故を起こさぬよう、後世に引き継いでいかなければならないというような意志を感じた。「伝言館」の資料は個人によって集められたものもあったりと、公の場では見ることができない展示物も見ることが出来る。原発事故の真実を知るためにも、是非足を運んで見てほしい。

 今回は五日間の中でも、特に印象に残った3点を記した。訪問3回目とはいえ、まだまだ現地を訪れる度に新たな発見が耐えない。また、変化する街の様子が見られる場所もあれば、最初に訪問した時とほとんど様子が変わらず復興が進んでいるのか疑わしいほど変化の見えない場所も存在する。しかし、徐々に分かり始めたことは、震災から13年の月日が経った今、地元住民の方は『復興』というよりも、『まちづくり』や『地域活性化』にシフトしてきていると感じた。復興を続けていく必要があるのは確かだが、まちを盛り上げようと地域の人々は既に自分たちで動き始めている。私達も支援を続けなければいけないのもまた確かではあるが、支援にとらわれず、どういう町があるのか、 1人の観光客として福島県に訪れてみたいと思うのも大切なことではないかと感じた。4月から4回生になる私が福島訪問に参加できるのもおそらく1、2回ほどだろう。いただいた機会を無駄にしないよう、次もまた新たな発見ができるよう、さらに広い視野を持って訪れたいと思う。

せりたひろし

写真から福島の今を知る(3)
13年目の福島に伺いました!!

2024年春の訪問(2024.3.10~3.15)では、3.11に初めて福島に滞在することができました。震災からまる13年を迎える福島でみたこと、かんじたことをお伝えします。

「ふたばいんふぉ」閉鎖

 双葉郡8町村の民間情報センター「ふたばいんふぉ」が3月31日で閉鎖。私たちの福島訪問でも随分お世話になりました。そして今回が最後の訪問となりました。また違ったかたちとなっても、復活したらいいなと思います。

3.11の日の出

 福岡と福島の日の出の時間は、おおよそ40分違います。3月11日の福島での日の出は5時53分(福岡は6時34分)。とても寒かったですが、海側から上がる日の出は、とても印象的でした(「おれたちの伝承館(南相馬市小高区)」にて撮影)。

村上海岸の防波堤

 南相馬市小高区の村上海岸を初訪問。かつては海水浴場として賑わったようです。今は防波堤とテトラポットに囲まれ、かつての景色を留めてはいません。この日の波は風もあって高かったですが、この何倍もの高さの波が迫ってきたかと思うと、ただただ唖然とします。

復興事業を示す看板 

 南相馬市鹿島区烏崎(からすざき)にある震災前と現在を比較する野外看板。被災した漁港の整備、太陽光と風力発電、防風林と防波堤の整備などが進められているようです。震災から13年を経ているわけですが、復興はまだこれからという印象です。

ローソクイベント 

 JR小高駅近くでは、3月11日夕方ごろから火を灯すイベントが行われていました。気まぐれな風に翻弄されながらも1時間近くかけて完成しました。福島のひとは粘り強いと思いました。

海岸近くの風力発電

 海岸線近くに建てられた4基の風力発電(万葉の里風力発電所)を初めてみました。あまりに大きく(羽根の中心まで85メートル)、九州ではあまりみかけないので驚きました。そしてこの電気は、どこに送られているのでしょうか。

野生の山菜類・出荷制限品目一覧

 二本松市の有機農家である菅野さんからみせてもらった資料です。表のとおり今でも山菜の出荷は、できないんですね。

雪道での車運転を初体験

 双葉郡葛尾村に宿泊した日の朝は、道は一部凍っていました。雪道での運転は、初でしたので、山道の下りは、ソロリソロリと下りました。対して地元の車は、雪道でもスピードが速くてスゴイ。
 今回の訪問では、雪の福島県を体験することができて、少しだけ東北の冬を味わえたかなと思いました。

同行してみて

 初めて3.11を福島で過ごすことができました。印象的だったのは、イベント中ローソクに火がなかなかつかなかったのですが、地元の人たちは何度も何度も消えては点けて消えては点けてを繰り返していました。
 実に辛抱強いというか、私たちも手伝ったのですが、すぐに諦めモード(苦笑)。その最中に「私たちこうやって13年やってきたよねー」という小さな声があちらこちらで聞こえてきました。
 福島の人たちの一面を知ることができた出来事でした。
【参考サイト】東京新聞社

同行者プロフィール

せりたひろし
広告デザイナー・中間支援NPO理事

 NPOやNGO、社会福祉協議会など非営利組織の広報ツール製作を多く手掛ける。最近は広報研修や講座の講師も精力的に務める。福島訪問の同行は、今回5回目となりました。福島では写真の撮影も多いですが、もっと上手になりたいですねー。

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