チェルノブイリ通信135号

福島だより 飯舘村の春

1.飯舘村

 飯舘村は福島県相馬郡に位置する。面積230平方キロメートル、原発事故前は人口約6,500人(約1,700世帯)の村。因みにほぼ同じ面積の大阪市(225平方キロメートル)は人口277万人を擁する。この人口密度からも「日本で最も美しい村連合」に加盟が許されている村であることを理解頂けると思います。

 原発事故で2011年4月村は全村避難となり福島市など近隣自治体での避難生活が始まりました。2017年3月末に一部を避難指示が解除されました。しかし、現在の帰村者は30%弱に留まり、現在も避難先に止まっている。帰村者の70%は60才以上の村になっている(2024年3月)。

2.自然豊かな村

 飯舘村の春は遅い、標高400m~500mの村の春は4月中旬頃から始まる。桜はGW頃が盛りになる。飯舘村の魅力の一つは豊富な自然の恵みだ、雪が解けると“ふきのとう”から始まり次から次と芽吹く。食いしん坊な私にはとても魅力的な村でした。今晩のメニューは山菜の天ぷらと決めたら、屋敷内を一回りしてくると、ふきのとう、こごみ、タラの芽、山ウド…が採れる。

(左)ふきのとう (右)こごみ(草ソテツ)

 飯舘村は貧しい村?、福島県の貨幣経済下の統計では下位に位置する村でした。しかし私が付き合った村人から“貧しさ”を感じることは無く、私のようなよそ者にも優しく対応してくれる人たちから心の豊かさを感じました。

 それは、三世代同居(中には四世代同居も)の割合が高く、祖父母が孫の面倒を見て、若手が企業に勤め現金収入を得て、土日には農業でコメ作り、野菜作りを行う。食費で現金を払うのはたまに買う肉や魚程度でした。その肉や魚も、有害鳥獣駆除で捕獲された猪肉や狩猟で捕れた野鳥など、近くの川で捕れたヤマメやイワナも食卓に上りました。お年寄りの話を聞くと食費の4割ほどは自然の恵みだったと言う事にも頷けました。

 そして、食卓が豊かな訳、それは自然の恵みがもたらしたもので、5月頃から、ワラビ、フキ、山ウドなどを採取し塩漬け保存します。秋から冬にかけて野菜が無くなるころ出してきて塩出しをして調理し食卓に上るのです。

 人の幸せは“金”でない事がお分かり頂けるとおもいます。私のように村外から入ってきた者には素晴らしい環境ですが、村の人たちにとっては“当たり前”でした。私は新潟市に住んでいたいたころは、シーズンになると車で1.5時間も2時間も掛けて山菜取りに出かけていたましたから。

3.原発事故がもたらしたもの

 この豊かな自然の恵みが一瞬にして恵みで亡くなりました、それは13年前に起きた東日本大震災とそれに続く福島第一原発事故による放射能汚染です。飯舘村は地震に強く、震度6強の地震にも倒壊家屋ゼロでした、飯舘村の災いは3月15日夕刻に襲った放射性物質を含んだ雲が村を覆ったとき雨になり夜半から雪になりました。

 大雑把に言うと、15日午前中は陸から海に向かっていた風が、午後からは海から陸に向かう風に変わりました。事故現場で放出された放射性物質を含んだ雲が飛んだ先で雨になり放射性物質を地上に降らせた、これが原発事故です。

 降下した放射性物質は土壌を汚染し自然の循環サイクルに組み込まれました。そして植物は放射性物質(主にセシウム)を栄養素として吸収し葉にため込み、秋には落ち葉になり地上に積もります、葉っぱは腐りますがセシウムはその場に留まり、翌年また根から吸収することになります。飯舘村では13年を経て腐葉土が最大の汚染源になっている。

4.山菜の汚染は続く

 表は2012年から村内産の山菜の汚染を測定の結果です。

 全体的には汚染の低下傾向が見られます、要因はセシウム134(半減期2年)が消えたのが寄与しています、残る汚染源のセシウム137(半減期30年)が消えるのに約300年掛かりその間汚染が続くのが原発事故です。

伊藤 延由(いとう のぶよし)

1943年 11月生まれ
2010年 飯舘村の農業研修所「いいたてふぁーむ」の管理人に就く。管理人の傍ら、水田・畑を耕作。
2011年 2年目の準備を目前に被災。6月末福島市内へ避難。11月「飯舘村新天地を求める会」を立ち上げ活動。

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