2025年秋 福島訪問レポート
2025年9月7日~9月11日の福島訪問参加者のレポートです。
訪問を通して知ったことや考えたこと、感じたことについて報告していただきました。

2025年秋福島訪問
中田青来(大学4年)

仮設住宅を再利用した新たなコミュニティスペース
今回の福島訪問では5日間を通して、多くの方から様々なお話をお聞きしました。
1日目は浪江町建築設計事務所「Fimstudio」の渡部さんから、実施している活動などについて教えていただきました。渡部さんは仮設住宅を再利用してSTUDIO B‐6を設立されました。ここでは、スタジオ、シェアキッチン、カフェ、書店が一緒になっており度々イベントやワークショップが開催されるそうです。スタジオ設立に際しても、ワークショップという形で多くの方々とともに作られたそうですが、コロナ禍でもあったため作業が途中で止まり満足には進めることができないという困難がありました。その後、スタジオを完成させ、今では渡部さんと仲間の皆さんでイベントを開催し、新しいコミュニティの交流の場となっているそうです。地元の方々に加え、移住してきた方々とともに暮らしていく上で渡部さんたちが作る輪は重要なものであると感じました。

帰宅困難区域で見た、震災当時の様子
2日目は大熊未来塾の木村さんにご自宅がある中間貯蔵施設内を案内していただきました。中間貯蔵施設内は帰宅困難区域であるため、ほとんど震災当時のままの状態でした。熊町小学校には津波は到達していないため、教室の黒板には日直の記録などが、机には国語辞典やランドセルがあり、津波で壁や机ごと流された請戸小学校と比較しても現在でも問題なく過ごすことができるように見えます。しかしながら、目に見えない高い放射線量により小学生が通うには非常に危険な場所になっています。

記憶や教訓のために ~震災遺構の意義
熊町小学校は原子力災害の震災遺構として、後世に残していく話が以前からありますが、現在、取り壊す意見も挙がっているそうです。私は、原発事故を繰り返さないため、歴史を学んでいくためにも熊町小学校を残していくべきだと考えます。原発事故が与える影響についてインターネットなどで知るだけでなく、実際に目で見て感じることでより現実味、自分事という意識を持って考えることができると思います。
また、熊町小学校の近くにある幼稚園には地域の人々に世代を超えて親しまれてきた大きな紅葉の木が生えています。放射線量が高いことで人は住むことができなくなったのとは反対に、自然は深まり紅葉の木を蝕むほど植物が生い茂っていました。私たちが訪れたときには紅葉にツタが這っていましたが、地域のシンボル的存在である紅葉を大切にしたいという地元の方々の思いにより、一度紅葉周辺の草刈りが行われたそうです。原発事故発生後、地域の人々がバラバラに避難し再び帰ってきてもあまり交流がなかった中で、紅葉を通した地域の人々の交流が生まれたことは大きな意味があると思います。
繰り返してはならない原発事故
木村さんの次女の汐凪(ゆうな)ちゃんは東日本大震災で亡くなられ、現在でも発見されているのは一部の遺骨のみです。そのため、木村さんは定期的に捜索活動をボランティアの方々と共に行っていらっしゃいます。発災後、木村さんの自宅周辺を見回っていた消防団の方の中に人の声を聞いた方がいたそうです。しかしながら、木村さんはもちろん消防団の方々も原発事故により避難指示が出て、十分に捜索できない状況でした。もし、地震と津波だけであったら、木村さんはご家族をもっと探せたかもしれない、原発事故さえ起こらなければ救えた命がもっとあったかもしれない、そう思うと人災と言える原発事故は防がなければならなかった、もう二度と繰り返してはいけないことだと思います。
私たちは原発事故について学ぶと同時に、家族や近隣の方々と災害が発生した時にどうするかを話し合い、防災対策に取り組んでいくことが必要だと感じます。また、電気に限らず私たちの身近にあふれている便利なものについて、ただ享受するだけでなくそれらが抱える負の側面についても改めて考えていくことが求められると思います。

人々が大切にしてきた土地や暮らしが復興のために失われる
3日目には写真家で「おれたちの伝承館」館長をされている中筋さんにアテンドしていただきました。小高区にある大悲山の石仏は東北地方で最大・最古で国指定史跡となっています。加えて、樹齢1000年といわれる大悲山大杉や大蛇伝説などもあり、神山として地域の人に大切にされている場所です。しかしながら、大悲山の裏に回ると防潮堤などに使われるため山が切り崩されてしまっていました。復興のためにもともと大切にされてきた土地・環境を壊している現状に、本当の意味で地域を守り大切にしているとはいえないと感じました。

原発事故で安全に住めなくなっただけでなく、復興のために地域環境の破壊が行われ、犠牲になっている現状は矛盾していると思います。このように、神山以外にも削られている山は多く、中には鉄塔の下が削られている場所もあったことから原発事故の要因である外部電源喪失が再び発生してしまう危険性も考えられます。
また、原発事故から再生可能エネルギーへとシフトしている動きも見せています。ソーラーパネルに関しては、草刈りが間に合っておらず除草剤が使われているようであることから、放射能の次は除草剤の公害問題が危惧されます。
これらのことから、東日本大震災から14年、復興のために新たなる問題が発生している現状に、復興とは何かを考えさせられます。

日々の放射線量の記録から見えること
除染後も高い線量を示す場所がある
最後に、飯館村の伊藤さんと元新聞記者の小林さんから、飯館村の現状や行われている活動についてお聞きしました。
伊藤さんは放射線量を日々記録されています。飯館村の比曽十字路は自然の営みによって、雨が降るたびに放射能が流れ、溜まることで放射線量が高くなっています。このような現象は、比曽十字路以外にも多くの場所で発生していると考えられるが、一度除染した後、再び除染することは基本的にないため、知らない間に放射線量が高い場所で生活している可能性は十分あり得ると考えられます。
放射線について考える際には、「放射線防護の三原則」を理解することも大切です。放射線防護の三原則は正当化、最適化、線量限度からなり、正当化では医療など放射線を使用する行為は、それによって得られる便益が不利益を上回る場合にのみ認められます。また、Clearance Level(クリアランス レベル)といって原発構内では汚染された作業着など100ベクレル/kg以上は厳格に管理されているのに対して、原発構外は8000ベクレル/kg以上という大幅に緩和された制限基準が設けられていることは、疑問を抱かずにはいられません。
原発や放射線、被曝のリスクについて自ら知ろうとしない限り知ることができないのが現状だと思います。しかしながら、私たちもいつ原発事故の脅威にさらされるかわからない状況にあるため、正しく学び、改めて原発について考えることが重要だと思います。
利便性を享受するだけでなく
その裏側にあるリスクにも目を向け、考える
小林さんからは、原発誘致が行われていた当時のお話をお聞きしました。小林さんは当時中学1年生頃で原発PR映画を見たそうです。しかしながら、その場では明るい未来のみが語られ、公害などのリスクに関する話はなく、アンケートに書いて説明を求めても結局何も話はなかったそうです。それから原発はずっと心の中にあったが、事故前に津波の伝承などを調べることができていれば、原発を止めることはできなくとも今が何か変わっていたかもしれないという思いから、原発に関する調査を進め、発信する活動を行われています。
先述したように、原発や放射線のリスクについて学校で教えてくれるわけではないことから、表面的なことだけ知り受け入れるだけでなく、疑問を持ち自ら学んでいくことが大切だと考えます。このことは、原発だけでなくすべての事柄に対して重要な姿勢だと思います。
今回の福島訪問を通して、原発事故が地域に与える影響は放射線の被害だけでなく、地元の方々が大切にしてきたものが望まない形で変えられてしまうといった問題がありました。福島の現状から私たちの生活を改めて振り返るとともに、原発が抱える様々なリスクについて考え自分事として捉えていく必要があると思います。また、自分だけでなく家族や友人などにも福島の現状や原発のリスクについての情報共有を行い、ともに考え、防災などできることから取り組んでいきます。
復興の在り方を考える
古賀乙羽(大学3年)
より深い学びと体験を得た2回目の訪問
私は今回二度目の訪問となりました。半年ぶりの訪問となり、再び新たな学びを得る機会を設けてくださったことに感謝の想いです。新しくスーパーマーケットやドラッグストアが建てられたり、近年中の完成を目指している復興祈念公園もあったりと少しずつ復興が進んでいるように感じました。
前回の訪問では、ただただ災害がもたらした町の現状に衝撃が大きく、より原発のことについて深く知ることができず無念でした。原発に対して無知な自分だからこそ、一から時間をかけて深く学んで、知っていこうと思います。今回も多くの方から貴重なお話や体験をさせていただきました。

新たなコミュニティースペース
東日本大震災後に造られた木造仮設住宅を再利用した「STUDIO B‐6」という場所が浪江町にあります。事務所Fimstudioの渡部昌治さん(以下、渡部さん)が震災後、長い間空き家となっていた仮設住宅をどうにか活用できないかと考えた結果、造られたのが「STUDIO B‐6」です。シェアキッチン、カフェスペース、書店、事務所が一体化した場所となっており、地域の人々の交流の場として活用されています。木材の暖かな温もりのある空間で、近所であれば通いたくなるような場所でした。様々な復興の形がある中で、再活用という面と人々の交流できる場所という面はなかなか無いように思います。移住者の方々も増えてきていますが、震災前に比べるとまだ居住者数は少ないそうです。移住してきても馴染めない・居場所が無いという問題もあります。そのためには、誰でも気軽に訪れられる居場所が必要です。そのような場所になれば、とのことです。
夫婦での夢の実現
また、今回初めて農家民宿「古今呂の宿 福とみ」さんにて宿泊し、人の繋がりを感じました。夕食では、飯舘村生まれのかぼちゃ「いいたて雪っ娘」を使ったお料理を中心に、季節の食材をふんだんに使用したお料理に感動しました。オーナーの渡邊とみ子さんからはいろいろなお話をお伺いできました。震災後の苦悩や挫折から、人との協力を経た成果などお話しいただきました。どのような状況下でも心の支えとなった亡き夫・福夫さんの存在の偉大さに感銘を受けました。2024年に民宿としてオープンし、福夫さんの夢が実現しました。民宿ならではの親しみやすさが人との繋がりを強く感じられると思います。

震災で人々は多くのものを失いました。かつて居た場所に「生きた証」を残すことに価値があるのではないでしょうか。そのことについて考えさせられたのが中間貯蔵エリアです。
中間貯蔵エリアでの見学
大熊未来塾代表の木村紀夫さん(以下、木村さん)に中間貯蔵エリアの案内をしていただきました。線量が高いため、大学生ボランティアは防護服を着用して見学しました。

エリア内は、まるで14年前から時が止まったような感覚になる場面を多く感じました。木村さんの亡き娘の次女・夕凪(ゆうな)さんがかつて通っていた熊町小学校は机上に物が散乱し、当時の緊迫感が伝わってきました。また、栽培漁業センターは津波で建物が崩壊し、ボロボロの状態で残っていました。

このような中間貯蔵エリア内建物の今後を巡って、行政と地元の方で意見の相違が起こっているのが現状です。例えば、熊町小学校は保存方法としてVRで残す策が出ているそうです。このことを聞いて衝撃でした。裏を見れば、遺構として残したくない=行政にとって都合の悪い場所ということです。過去をもみ消すことで復興を謳っているように感じました。震災当時のまま遺構にすることは、当時の状況を知り、そこから学ぶ機会を得るだけでなく、そこで「生きた証」を残すことができます。そのために、残さざるを得ない状況を作ることが大事です。
福島県外での除染土の処分について
今回の訪問で、除染土の行方に関心を持ちました。除染土の最終処分は、2045年までに福島県外での処分が法律で定められています。国全体で背負うべき課題ではあります。ですが、放射線測量家の伊藤延由さんによると、福島県外での処分にはリスクがあるそうです。除染土を埋め立てることで、何らかの不手際で掘り返さないか・自然災害で土が流れ出ないか、ということです。だからこそ、福島県で一か所に集めてリスクの削減をすべきだと仰いました。

(双葉町産業交流センター屋上から)
今回の訪問でも多くのフレコンバッグが山積みになっている光景を目にしました。果たして、これらすべてを問題なく運ぶことができるのかという疑問があります。放射線は目に見えないからこそ、いつ・どこで問題が発生するのか分かりません。県外のあちこちに埋め立てられて、原発に対して知識の無い人がいた場合のリスクなど不安な要素はいくつもあります。例えば、被ばくすることでがんのリスクがあるなど、国は被ばくリスクを国民に周知させていません。この問題はずっと前からあります。私たちは無知のままでいいのでしょうか。
開発の進む浪江町を見て感じたこと
また、中筋さんの案内で浪江町を訪れた際に、前回よりもさらに復興への準備が進んでいるように感じました。浪江駅周辺のグランドデザイン計画や、F‐RAY(エフレイ、福島国際研究機構)による大学建設に向けての工事など、どんどん開発が進んでいました。外側だけ見れば、町の活性化になっていると感じます。また、「脱炭素社会」として、グリーン水素(再生エネルギーを使って、CO2を排出せずに作られた水素)を軸にしたまちづくりを目指しています。エネルギーの地産地消でエコ化を促進しているそうです。

都市開発で最も大切なことは、震災前の思い出や景色が一変しないことです。中間貯蔵エリアでは、もともと存在したものを壊して、新たなものに変える計画があります。この計画は、今一度見直す必要があると思います。
原発は戦争とは違い目に見えないからこそ世間的に重大視されていないのかもしれません。エネルギーの町としての誇りだと語る人もいますが、悪く言えば「国に良いように利用されている」というのが現実です。災害があってもなお、発電所は多く残っているのが今の日本の現実です。
世の中は進化しつづけ、昔に比べてはるかに便利になりました。ですが、便利と引き換えに多くの危険を抱えているという危機感を再認識する必要があります。そして、汚染廃棄物処理問題など今一度、多くの人に興味・関心を持っていただきたいなと思います。年月が経つほどと人々の記憶は無くなっていきます。だからこそ私たちのような若い世代が積極的に関心を持つべきではないでしょうか。私自身にできることは限られていると思いますが、今後もまた訪問等を通して、原発を始めとした様々な問題について積極的に考えていきたいです。
写真から福島の今を知る(6)
まだまだ知らない福島を知る!!
せりたひろし

通算8度目となった福島訪問(2025.9.7~9.11)でみたこと、かんじたことを、写真と文章でお伝えします。


▲ 「2045年にこの土地へ戻る」という思いを伺う 【大熊町】
大熊未来塾代表木村紀夫さんの案内で、中間貯蔵施設内を見学。「施設が県外に移設されるだろう2045年に自分たちは戻ってくる」という思いを自宅があった場所に石碑(写真)を建立したという町民の方のお話を伺いました。


▲ 熊町小学校の教室は3.11のまま 【大熊町】
大熊町立熊町小学校(現在閉校)は、3.11当日のまま。ここで木村さんご家族の3.11当日の様子を克明に伺った(自宅は流され、父と妻、次女が亡くなった。自宅は現在、中間貯蔵施設内となっている)。熊町小学校は、遺構として残す動きもあるようで、今後にも注目だ。

富岡漁港近くにポツンとあるブランコ近くに最近できた案内図(上の写真)をなにげなくみた。眼下に広がる海辺や海岸線は、3.11以降のものであり、それ以前とは違っていることに気付かされた。案内図にある2枚の写真は、改めてあの日この地を襲った津波の威力を、今に伝えている。


▲ ドローン操縦・写真撮影に学生もチャレンジ! 【双葉町】
3度目のドローン登場となった今回の訪問ですが、今回は大学生にも操縦と写真撮影にチャレンジしてもらいました。最初は少々緊張した面持ちでしたが、上空からみる立体感を堪能したようで、夢中になって操縦していました。写真もバッチリでした。
同行してみて
今回の訪問は、最初の訪問から熱望していた木村紀夫さんに案内をようやくお願いできました。

中間貯蔵施設内に自宅があるという木村さんは、これまで福島で聞いてきた話のいわば集大成のような感じがして、大きく心に響きました。さらに水俣や広島、沖縄にも関連づけてお話が伺えたことで、福島の現状や今後が過去に起きた出来事と変わらないことも、残念ながら明確になってきました。
それから、木村さんは「チッソは私であった」といった水俣の緒方正人さんと、どこか似ている気がしました。実直に物事に向き合う姿勢が似ているかも。九州では今まであまり話したことがないようで、次はこっち(九州)で是非機会を設けたいものです。

