チェルノブイリ通信136号

【福島レポート】原発事故被災地で暮らす
~混沌と葛藤を乗り越え、対話から熟議へ~

(原子力災害考証館furusato 事務局長西島香織)

 首都圏から双葉郡富岡町に移住して5年が経った。一部避難指示解除となり住民が戻り始めた2017年当時と比べると、こども園の園児数は当初の11名から60名へと増え、ファミリーでの移住者も珍しくなくなった。

 この町での暮らしを伝えることは、とても骨の折れる仕事だと私は思う。ただ、専門家でもなく被災者でもない私が唯一できることは、やはりこの地に住むことなのだ。この気持ちだけは年々、強くなっている。

 混沌とした今の状況と、それに対する自らの気持ちを言葉にするのは難しい。だからこそこうした執筆の機会を頂けたことに心から感謝したい。

富岡夏_富岡の海

1. 移住に至るまで

 もう15年以上も前になるが、大学で環境社会学を専攻した私は、後に原子力市民委員会座長となる故舩橋晴俊教授のゼミ生として核燃料サイクルと地域社会をテーマにフィールド調査等を行い、なぜ90年代初めから住民運動が急速に衰退していったのかについて考察などを行った。

 その時から「公論形成はいかにして可能か」をテーマに据えていた。「公論形成」は、「合意形成」とも「世論形成」とも異なる。市民が主体的に議論に参加し政策論争を経て、熟議の上に成り立つものだ。環境社会学研究において、「公論形成の場」を豊富化することは問題解決論の要と考えられている。

 しかしなぜそれが、特に原子力政策や廃炉プロセスにおいてうまくいかないのか。なぜ、権力者の意見が非論理的であるにもかかわらず採用されるのか。なぜ一番の被害者がこれほどまで日常を犠牲にして闘わねばならないのか。私は知りたかったし、改善したいと思っていた。この問いが、移住に大きく関わっている。

 移住前の私は、東京の環境NGOスタッフとして原発・エネルギー問題に取り組んでいた。再エネや核ごみに関する、電力会社や自治体へのアンケート調査を行ったり、霞が関で院内集会を開催したり。

 一方で福島県二本松市に通った。汚染された土地や消費者との繋がりを再生させる有機農家たちの取組みから、身土不二(人間の暮らす土地と身体は二分できない)の考え方と市民主導・地域主権のあり方を学んだ。遊雲の里ファームの菅野正寿さんからは、「何か地域社会を変えたいと思ったらまず、自分自身が地域に根差すことだ」と教えられた。

富岡春_菜の花畑

 当時活動を共にしていたメンバーが今の夫だ。環境NGOでボランティアスタッフを続ける傍ら、東日本大震災支援全国ネットワーク(JCN)の福島担当として、2013年から福島と東京を往復していた。私と結婚した後も二拠点生活だったが、出産を機に転機が訪れた。

 私はとりあえず、埼玉の実家で出産した。その後半年間、どこに根を下ろすか悩みに悩んだ。放射能に対する健康への不安はもちろんあったが、そもそも富岡町に住むことが原子力災害を軽視し原発を容認することに繋がりそうで、そんな自分をとても赦せなかった。今思えば、周囲に、富岡に住む理由を説明できるか否かも、移住できるかどうかの重要なポイントとなっていた。職業柄、放射能の危険性に厳しい意見の同僚や先輩が多かったのだ。

富岡町_一本道を進むと海にたどり着く

 「子どもが可哀そう」「子どもにも人権がある」という人の声が一番、こたえた。富岡町に住んでいる娘は「かわいそう」な目で見られるのではないか。自分自身の中にあった差別意識が、小さな娘を介して鮮明に浮き上がってきたときの気持ちの悪さは、今も覚えている。

 移住を決断できたのは、他でもない地域住民たちのお陰だった。夫に誘われて1週間、「お試し移住」をした。そこでは、私が悩んでいる間にも「二度と故郷を失わない」と決意した人たち‐帰還者もいたし、移住者も沢山いた‐が、再び町を作り直していた。帰還困難区域での遺体捜索やがれき撤去の話も聞いた。その姿は、一度汚染されてしまった土を耕す有機農家の背中に重なった。それは、「復興予算」でガシガシ建物が建っていくイメージとは全く異なる、傷つきながらも地道でまっすぐな、住民の姿だった。

富岡冬_復興の「富あかり」

2. 本当の対話、そして熟議への挑戦

 時として、多様な利害、多様な想いが渦巻く中でおぼれてしまいそうになることがある。

 混沌は町の中だけではない。国策と日常の狭間で。県内外で活動する先輩・同僚たちや、多様な組織との議論の合間で。一旦力を抜いた瞬間に大きな渦の中に飲み込まれていく自分を想像することがある。でもそんな時は、本当は何がしたいのかを自身に聞いてみる。私が分かっていることはこれだけだ。対立は、何も生まないということ。対話は、新しいものを生み出すということ。

 これは10年以上、何度も自分に問うてきた。

 対話。これはもう、放射性廃棄物問題ではだいぶ手あかのついた言葉になってしまったことを残念に思う。本来、対話は馴れ合いではないし、ましてや理解/啓蒙活動でもない。「意見の異なる者同士が対等な立場で互いの意見の背景事情を理解しながら、よりよい解決策を見出すプロセス」だと私は解釈している。

 原発を推進する側も、原発をなくそうとする側も、対話が大事と言いながら対立に向かうか、対立を恐れて対話の場につかない場合が多い。まれに、北海道や岐阜県瑞浪市の地層処分研究に関する院内会合などでは市民側が対話の姿勢で質問を投げかけるが、官僚側の返答がそうはならなかった事例がある。一方で、北海道寿都町の住民活動の中で、改めて対話の意義を問い直す動きもある。

 私は、自分の納得いく形での対話の場をつくりたいのだが、未だかつて上手く行った事はない。

 たいてい、いわゆる推進派/反対派のどちらからも「中途半端」「何をしたいのかよくわからない」という意見が聞かれ、どちらかに振り切れると、自分としてはやっぱりうまくいかない。

 対話の実践例として、いわきの任意団体が主催する「未来会議」がある。未来会議は「対話の場であり議論の場ではない」としており、政策論争自体を行う場ではない。しかしながら、自身の気持ちを率直に伝える勇気を得たり、他者の発言を傾聴する学びを得ることができ、それは結果として熟議の土台をつくるものだと思っている。

 課題は、対話から信頼関係を築き、安心して議論に参加できる場づくりは可能かということだ。それを経てはじめて熟議の可能性が拓けると思う。

 未来会議で大切にしていることの一つに、「答えを求めようとすると分断が起こるが、問いを共有すると信頼が生まれる。」という価値観がある。だからこそ、対話の結果ではなく安心して対話できる関係性を構築することの方に重きを置く。私はこの考え方にとても深い共感を覚えた。

 東電で働く人たちが友達で、町をつくる仲間だ。「先輩に言われたから」という理由で彼らはコンビニに行くときも仕事着を脱いで買い物をする。「最近はなくなったけれど、以前は仕事用携帯に町民から電話がかかってきて、厳しいことを言われた」と吐露する人もいる。最近も、我々が主催した町民交流会で、ある方は最後まで東電職員であることを明かさなかった。

(左)考証館_遺品を手に取りながら説明する里見さん
(右)考証館看板

 一方で、「震災時、あの人たち(東電社員の家族)が一番先に逃げた」という話も聞く。

 汚染水(ALPS処理水)放出後、国民の批判の声に耐えられず辞めて行った社員もいると聞いた。私もお会いした事がある方で、自ら幼い子どもと被災しながらも事故と向き合い続けた、まじめな方だったと思う。海洋放出後、私はその方宛にメールをしてしまった。「本当に蚊帳の外だった、これまで『対話』してきた経緯はなんだったのか」と。そうした怒りのメールを送ったのは私だけではないにせよ、申し訳なかったと思う。怒りの矛先を向けるべき場所は他にあったと後悔している。

 昨年夏に起きた廃炉作業中の事故では、高線量のために暑い中、迅速に作業せねばとの焦りからチェックを見逃してしまったのではという事例があった。その他、詳しくは片山夏子著『ふくしま原発作業員日誌 イチエフの真実、9年間の記録』等で見られるような、人権問題になるような作業現場で働く作業員の方々が、この町で暮らしている。

 そういうことの一つ一つが悲しくて、心に影を落としている。私の話をよく聞いてくれる東電の広報担当者がいるのだが、彼に聞いた。「こんな廃炉のプロセスでいいと思ってますか…?」返答はなかった。

 こうした経験が重なったその結果として、地元では東電は一方的に説明をし、理解を懇願するだけになってしまったのではないだろうか。それを多くの人々は「無責任」「軽視」「表面的」と思うかもしれないし、経営陣および国には多大な罪があることは明白だ。しかし現場の社員は、加害企業の中での被害者でもあると私には見える。

 国からも企業からも守られなかった、地域住民の怒りを受ける盾となった、そして今も理不尽な政策の元で作業を遂行しなければならない被害者という側面が。

 これについては様々な意見があると思う。しかし未だ東電社員は分断の最中にいる。そして今も身体的・精神的苦痛を背負いながら働いていると思うと、少しでもその痛みを分かち合いたい、少なくしたいとも思ってしまう。

 簡単なことだと思う。こんな先の見通せない荒唐無稽な廃炉プロセスを終わりにして、せめて被曝をできる限り抑えたプロセスを再検討すればよいだけだ。でもそれができないのが悔しい。

 これから40年以上続く廃炉の現場で、作業員と町民が一体となって町づくりをしていける―そんな関係性になることはできないのだろうか。私にとっては、それが「ALPS処理水放出をどうやって止めさせるか」よりも何段階も重要な課題だ。近いうちに、必ずそのような場づくりをしたいと考えているので、ぜひ応援してほしい。

3. 故郷(ふるさと)を考える

 最後に。対話や熟議について語るときに忘れてはならないもう一つのキーワードは、やはり「故郷(ふるさと)」だ。

富岡秋_震災前の場所で開催されたえびす講市

 富岡町夜の森地区の、特定復興再生拠点だった場所の家を、買った。
これを書くと炎上しそうな気がする。夫の承諾を得て記載する。

 冒頭にも書いたが、ここに住むには職業柄、「なぜか」を説明できねばならない。質問には「子どももいるのに」という枕詞もつくので、これに回答するのは本当に骨の折れる仕事だと思う。

 実際に、私から納得いく答えをもらった人もいないだろうし、私も納得いく答えをした覚えがない。一番楽ちんなのは夫のせいにすることだ。「夫が夜の森に魅せられて、住みたいんだって」とか。または、「廃炉・復興の行く末を考え伝えるため」とか…。線量はというと(具体的な明示は避けるが)、暮らしていて年間1ミリには到達しなさそうだが屋外はちょっと気を付けたいなと思う微妙なラインなのだ。ホットスポットも気になっており、細かく測定して被曝を避ける工夫をせねばならない。

 ただ、10年後、買ってよかったなぁと思うことだけは確信している。

 夜の森に家を買うことをしなければ、私は、多くの空き地が綺麗に草刈りされている理由にも気づけなかっただろう。(※地主は避難中であっても自分の土地を定期的に綺麗にしに来る。そういう見栄のようなものがあるんでしょうねと不動産屋さんは言っていた。帰還した田村市の友人も「土地と切り離せない自分の一部という感覚。すごく良く分かる!」と頷いていた。)10年間、むしろ放置せず最低限管理し続けた大切なご自宅を手放す家主の気持ちを想像することもなかった。ゴーストタウンと言われた町の空家が、一つ一つ魂の宿った大切なものに思えた。かつて帰還困難区域と呼ばれ50年は帰れないだろうとされた地域の一部が、突然「特定復興再生拠点」とされ、道路や一区画のみが解除されていく様を「自分の未来の問題」として見ることはなかった。

夜の森_桜

 正直わからない、妙になじんでしまったとしか言いようがない。ここに住み続けたい。「とみおかって、こういうところほんとダメだよね…」とディスってしまいがちな箇所も含めて富岡町が好きだ。

 もしここでまた原子力災害が起こり、避難することになったら、「富岡に帰りたい」と思うだろう。そのくらいには、愛着をもって暮らしている。

 「だから住んでいる人が偉い」とは思っていない。しかしふるさとへのリスペクトなくして公論形成はあらずというのが、暮らしてみての率直な感想だ。それは、別に被災地に住みなさいという事ではない。今住んでいるそれぞれの場所が、長い歴史の中で作られてきたかけがえのない尊いものだという事だ。どんな場所であっても誰かのふるさとであり、それらは決して奪われたり軽視されたりしてはいけない。

 いわき市湯本に開設した原子力災害考証館furusatoは、そうした想像力を開放できる場所としてあり続けたいと思っている。その上で改めて一人ひとりが問うてほしい、原発は本当に必要なのか。

【著者プロフィール】

西島 香織
埼玉県出身。環境社会学を専攻し、大学卒業後は環境NGOで放射性廃棄物問題やエネルギー問題に関する政策提言活動に携わる。2019年より双葉郡富岡町に移住し、現在5歳児・2歳児の母。原子力災害考証館furusato事務局長。

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