福島だより 飯舘村の夏
2010年飯舘村の最初の夏を経験した飯舘村の夏は暑い。でも飯舘村の90%の家にエアコンは無いと知った。しかし、貧しいからではない(確かに貨幣経済の統計では県内の下位に位置するのですが)必要が無いからです。
私が現在住んでいる家にエアコンはありません、扇風機は備えていますが、年間何日使うか?。
暑いのは標高が高いせいかもしれません、しかし日影に入ると涼しい高原気候、夏場は日が翳ると急激に気温が下がります。夜寝る前に家の窓を開け放して寝ます、朝6時ころに窓を閉めます、すると昼間外から部屋に入るとヒヤリとします、その心地よさ!。
夏の昼寝は屋敷内の『大きな栗の木の下』です、山から吹き下ろす風が涼しすぎて目が覚めることがあります。 残念なのは空間線量率が高い事、ここ昼寝の場所は0.30~0.50µSv/h程度(事故前の6~10倍)になります。お叱り覚悟で言えば、高齢者は良いか?、被ばくのリスクを軽んじている。
1.飯舘村
こんな素晴らしい飯舘村の現在は、
表①の数値でお分かりの通り、事故前は世帯当たり3.81人、三世代同居が多かった、老人が孫の面を見る、若手夫婦が近くの職場で現金収入を得る、土日に農業に取り組む。
現在、飯舘村は原発特措法で、二地域居住が認められている(住民票は村に置いて、住まいは避難先の自治体)ため、村に戻って暮らしている人は少ない(7月現在、旧住民の帰還率は28.9%)。
理由は多岐にわたると思うが、
- 根底には放射線のリスク
村内居住者の74%以上が60才以上、高齢化率61.5%の村(2021年1月現在) - 避難期間が13年にわたったこと
生活基盤が移った、勤務先、学校など
が主な理由でないでしょうか?。
表⑤の新たな転入者(避難指示解除2017年3月末以後に転入した住民)
村(国)は住民が戻らない事を見越して、新規転入者の定住に力を入れている。
- 就学期の児童の教育費無償化(給食費、修学旅行負担金、制服、運動着‥‥、極論すると親が負担するのはPTA会費と下着だけ?)
村の教育委員会のHPをご覧ください『子どもを育てるなら飯舘村』で案内しています。 - 新規転入者の定住資金(住宅取得、リフォーム費用)など破格の補助
- 企業資金補助(国75%、村5%)
この措置は、飯舘村のみではなく被災12自治体に適用されている。
例えば、村内で営農再開すると、機材の80%が補助される。
2.豊かな飯舘村
しかし事故前の飯舘村心豊かで食卓も豊かな村でした。たまに現金支払いは肉や魚を飼う程度、その肉だって猪が捕れた時のお裾分け、川魚が豊富で釣り名人を自称する人が多かった。
2010年入村してお近づきになった釣り名人は、近くのダム湖で釣った川魚を冷凍保存し持参して食べ方まで指導してくれたものでした。
たまに猪が捕れた時は捕獲に関わった皆が集まって農家の軒下で七輪で骨付き部分を焼いて一杯飲むのが恒例でした(ヒレ、ロース部分は販売)、私は捕獲には関わりませんし下戸でしたがその席に出席していました。
3.互酬経済がもたらした豊かさ
村は天明の大飢饉で人口が半減とか、相馬藩の山中郷の位置づけなど歴史のある村ですが、一方で戦後開拓で入村した人たちも多い村です。
開拓作業などで力を出し合う「お互い様」の精神が強く、経済面での協力も強い物がありました。農地はある、コメは作っていないが畑の作物は作っている、玉ねぎを収穫し隣におすそ分けすると、じゃが芋採れたから持っていきなさいと持たせてお返しが普通だった。野菜なんか買ったことが無いと聞きました。
2010年夏ごろ、近くのSさんが、段ボール箱を勝手口に置いて、これ農協に出せないハネ物だけど味は変らないが食べなさいと、中身は生きのいいインゲンでした。飯舘村のインゲンは美味しい、近くの市場では良い値段で取引されていたそうです。インゲンは好物とは言えませんでしたが、早速調理して頂きました。歯触りも香りもとても美味しかった事を記憶しています。
インゲンと言えばこんな話も。
原発事故で避難し仮設住宅に入居し、すべての食材は近くのスーパーで調達でした、インゲンを買ってきて調理したが、見た目はインゲンだけど飯舘村で食べていたものとは違う、何よりも飯舘村ではインゲンは買うものでなかった、畑の隅に植えてあった。形はインゲンだけど村で食べていたものとは違うと、複数人から聞きました。飯舘村のインゲンを失って飯舘村の豊かさを実感した一コマです。
伊藤 延由(いとう のぶよし)
1943年 11月生まれ
2010年 飯舘村の農業研修所「いいたてふぁーむ」の管理人に就く。管理人の傍ら、水田・畑を耕作。
2011年 2年目の準備を目前に被災。6月末福島市内へ避難。11月「飯舘村新天地を求める会」を立ち上げ活動。