2024年秋 福島訪問レポート
訪問を通して知ったことや考えたこと、感じたことについて報告していただきました。
2024年秋福島訪問 中田青来
私は今回、初めての福島訪問を行い、東日本大震災から現在にかけての福島の状況を自分の目で見て、知ることができました。これまで、災害に関するニュースや学校での避難訓練、被災された方々の避難生活について何度も学んできたが、災害が起こった当時の話に焦点を当てた話が多く、現在の福島がどのように変化していすかといった現状を知る機会はほとんどなかったように思います。そのため、被災した当時の状況に加えて、福島の現状を自ら知る貴重な機会となりました。
〇震災遺構 浪江町立請戸小学校
まず、私たちは請戸小学校に行きました。請戸小学校は東日本大震災により、大きな被害を受け震災遺構として保全・一般公開されています。校舎に津波がどのくらいの高さまで来たかの表示があり、1階が完全に浸かる波が押し寄せたことが分かります。もし、逃げ遅れていたら助かることは不可能であったと考えられます。津波により、教室の窓ガラスは割れ、床や天井が剥がれ、机などは流されてしまっていました。津波が来る前の写真が展示してあり、比較してみると教室ごと人々の思い出も流されてしまったように感じました。
また、給食の調理場では調理器具が重なり津波の勢いで出入口につまっているような感じでした。このように、津波の恐ろしさは波の大きさや勢いだけでなく、津波に押し流されてきた様々なものが一緒に襲いかかってくるという点ではないでしょうか。
これは、校舎の大きな柱の間に大きな幹の流木が挟まっていたことや、現在は撤去されていたが実際に調理場近くの壁に外から自動車が突っ込んでしまっていたことからも分かります。請戸小学校の体育館を外から覗いてみると、卒業式の幕が下がっていました。卒業式練習が行われていた。被災した小学生は、思い出の詰まった請戸小学校で卒業式を迎えたかったと思います。卒業という大切な機会をも奪う津波は、人々に苦しみしか与えないと感じました。
私は津波の恐ろしさは防災訓練など様々な場面で教えられてきましたが、漠然と思うだけで実際には現実味がありませんでした。しかしながら、今回、請戸小学校を自分の目で見て、感じることで津波の恐ろしさとともに絶望感を体感しました。
津波が到達していない2階を見ることで、より同じ建物なのかと信じられない気持ちになります。津波によってすべてを奪われたという言葉は大袈裟ではないです。
また、2階に当時、請戸小学校に通っていた方々の寄せ書きが黒板に書かれており、再び会える日を願ったものや福島復興を応援するものなどがあり、たとえ住むことができなくても故郷を強く想っていることが伝わってきました。
〇東日本大震災・原子力災害伝承館
東日本大震災・原子力災害伝承館は福島県双葉町にあり、2020(令和2)年9月20日に開館し、福島で起きた地震、津波、東京電力福島第一原発事故という複合災害の実態や、復興に向けた歩みが展示されています。東日本大震災について多方面から、知り、学ぶことができました。まず、実際の津波の映像などを見ることで、私たちが今いる場所も津波が来ていたこと、いかに復興が大変なのか、どのように福島の人々が向き合ってきたのかを、復興の過程などを通して学びました。
東日本大震災による、全国の死者・行方不明者1万8000人以上となっています。
福島県内の犠牲者は4,100人以上で、このうち東京電力福島第一原子力発電所事故に伴う避難生活での体調変化や過労など、間接的な原因で亡くなる「震災関連死」は2,300人を超えており複合災害の深刻さがわかります。
現在も原子力災害により、福島県では25,000人以上の方が故郷を離れての生活を強いられており、地元の人々が戻ってくるためには様々な課題が積み重なっています。
〇とみおか・アーカイブミュージアム
とみおか・アーカイブミュージアムにも行きました。富岡町で受け継がれてきた地域資料や、東日本大震災と原発災害で生じた震災遺産が収蔵・展示されています。
とみおか・アーカイブミュージアムには津波によって流されたパトカーが展示してあります。パトカーは激しく変形し、津波の激しい勢いを目の当たりにしました。パトカーに乗っていた警官の方々は、町の人々の命を守るため、ギリギリまで避難指示を出して回っていたそうです。
〇双葉町役場・双葉駅
震災後、建て替えられた双葉町役場と双葉駅を見てきました。
双葉町は2022年8月30日に帰還困難区域のうち、福島県双葉町の特定復興再生拠点区域(復興拠点)での避難指示が解除され、居住できなかった11年間と比較すると居住できるようになって2年しか経っていないのです。そのため、町の基盤を1から作り上げることになり、役場や駅を中心に復興を目指している最中です。周辺には、新しく郵便局もでき、少しずつ変化してきています。
〇モニタリングポスト
福島では各地にモニタリングポストがあります。モニタリングポストとは本来、発電所周辺への放射線の影響を把握するために、空間の放射線量を連続的に測定している設備です。
しかしながら、福島では発電所周辺だけでなく、遠く離れた場所でも設置されており、県内に約3600地点にあります。14年が経ったことで、事故当時より放射量が減ったとはいえ、完全に安全だと言えるまで果てしない時間がかかるでしょう。道路の途中や公園、人が集まる施設など様々です。私は初めて見ましたが、福島の方々にとっては当たり前の光景となっていることから、常に放射線量を意識した生活をしなければならないということでもあると思います。特に雨の日は雨とともに地上に放射線が降りて来てしまうため、気を使う必要があります。
〇防潮堤と植林
津波の浸水被害を受けた地域では、防潮堤や緑地、道路、土地利用など複数の防御手段を組み合わせた防災対策が行われ、郡山海岸付近も植林がされていました。防潮堤は大規模なものが海岸に沿って作られており、防潮堤の周辺などに植林されていました。植林された木々は今後、長い年月をかけ成長していき、福島を守る重要な存在になるのだと思いました。
〇避難計画
福島県は、将来起こり得る原子力災害に備え、住民の避難などの緊急対策を迅速に実施するため、2014年に「福島県原子力災害広域避難計画」を策定しました。この計画では、関係市町村ごとに避難先や基本的な避難経路を定め、広域避難の基本的な枠組みを示しています。避難計画の策定は自治体規模であるため簡単に行えなくても、個人レベルでは避難経路の確認や非常食等の準備などできることため、まずは自分たちができることから取り組んでいくことが大切だと思います。
〇最後に…
私は今回、福島訪問に初めて参加してニュースやインターネットで得た情報はほんの一部であったと思いました。インターネットなどを通して知ることには限界があり、実際に行かなくては知ることができない事柄も多くありました。請戸小学校で床やドアの歪みや崩壊といった、実際の津波の被害を目の当たりにし、肌で感じる恐ろしさというものがあるのだと思いました。福島訪問で印象的だったのは、伝承館や道の駅といった場所には人がいるのですが、少し離れるだけで、日曜日だとは思えないほど人がいなかった点です。建物や道路などの復興が進んできていても、人がいる状態に回復させることの困難さを感じました。
以前の福島訪問では、虫の鳴き声すら聞こえて来なかったそうです。しかし、今回は虫の鳴き声が聞こえてくるようになっていたことから、福島の自然も以前より変化してきていることがわかります。震災から14年経ってやっと自然を感じるようになったことから、放射線の影響がどれほどのものか理解することができます。
今後、町の復興とともに自然に関してもより豊かになっていってほしいです。
これらの状況は福島に行かなければ知ることができなかった貴重な情報でもあります。そのため、福島訪問を定期的に行うことは福島の今を知り、伝えていくという大きな意味があると思いました。また、糸島市や福岡市西区、早良区の一部は玄海原子力発電所50キロ圏内にあるため福島の現状を知ることは大切ではないでしょうか?私にできることは少なくても福島の現状を他人事だと思わずに、受け止め、一緒に考えていくことは今後も行っていきたいと思います。
初の福島訪問を通して 石井楽来(大学4年生)
9月8日、私は生まれて初めて、福島県を訪れました。福岡で生まれ育った私にとって、東北地方は全く馴染みがなく、北の方にある遠い県、くらいのイメージでした。そんな私が福島訪問を通し、見たこと聞いたこと、学んだことをお伝えできればと思います。
今年で東日本大震災から13年が経過するとのことです。震災当時、私はまだ小学生でした。テレビが東日本大震災のニュースで埋め尽くされ、原子力発電所について詳しくは分からないながらも、大変なことが起きてるんだ、そう思いながらテレビを眺めていたのをわずかながらに覚えています。「13年」と年月だけ聞くと、とても長いように私は感じます。当時の小学生はみな高校を卒業するほどです。しかし震災からの復興、と考えると「13年」はまだ充分では無いようでした。
今回の福島訪問では、まず一日目に福島の道の駅や震災遺構である「請戸小学校」、「郡山海岸」や「富岡漁港」、東日本大震災に関する資料が多くある「東日本大震災・原子力災害伝承館」「富岡町アーカイブミュージアム」などを周り、見て学ぶ日となりました。そして二日目に富岡町や双葉町の散策、その後の三日間はそれぞれ福島をよく知る方々にお話を伺いながら、福島の様々な場所の案内をして頂きました。
私が一番印象に残ったのは、一日目に行った「請戸小学校」です。ここはなるべく被災当時のまま残されており、1階部分では震災の悲惨さを直接感じることが出来る建物となっています。また2階部分は資料や映像が展示されているコーナーがあります。見学ルートがあり、実際に建物内を直接見ることが出来ます。
通路となる部分は少し片付けられてはいたものの、教室内など至る所に被災の痕跡が残っていました。吹き飛び無くなった窓や壁、崩れ落ちた天井に木の破片の散らばる床。ぱっと見た限りでは自分の通っていた小学校との違いが大きく、映画やドラマのセットだと言われた方がまだ納得できそうな光景が広がっていました。
しかし黒板や電気のスイッチ、壁に貼られたポスターなど、自分の記憶にある小学校との共通点を一つ一つ目にするたびにじわじわと、ここが実際に被害を受けた場所であることの実感が込み上がり、津波の恐ろしさを改めて感じました。
私達は実際に津波の来た海岸も見に行きました。海周辺には人の気配や建物がほぼなく、またここでも津波被害の大きさを感じることとなりました。双葉海水浴場付近には、最大津波の痕跡高の見晴台があり、上まで登ることができました。津波による浸水は30センチメートルでも流される恐れがあり、また1メートルを超えると想定上の死亡率は100%になるとされています。そう考えるとここ双葉海水浴場での最大標高16.5メートルがいかに危険であったかが分かります。
私が次に強く印象に残った場所として、最終日に案内して頂いた「大規模発電施設(メガソーラー)」があります。見渡す限り、端が見えない程にソーラーパネルが建ち並んでいました。放射能汚染で農業が再開できない耕作放棄地を会社が借りて利用しているとのことでした。
利用の難しいスペースを有効に活用する、というアイディアはすごく面白いなと感じました。しかし、工事に伴って山肌が露出したことによる泥水の流出事故や景観、ソーラーパネルの廃棄に関する問題などで地元の方々からは反対意見も多く出ているとのことでした。また、ここで発電された電気は東京に送られるとのことで、より複雑な心境に陥る方も多いのではないでしょうか。地元の方々の意見、国や市町村の意見、企業側の意見、全員が納得できる道を進むことの難しさを感じました。
そして最後に、私がこの五日間を通して最も印象に残ったのが、福島の町並みや風景です。様々な場所へ訪問をする際、私達は主に車で移動をしていました。すると震災後取り壊されずにそのままになっている建物や「この先帰還困難区域に着き通行止め」と書かれた看板をよく目にしました。お店が営業し、人々が生活を送るすぐ近くでも見られる光景です。
建物の多くは、伸びた雑草やツタなどの植物に囲まれており、窓ガラスや壁人が住まなくなり、人の手が入らなくなると、ここまで緑で溢れかえるのか、と植物の生命力の力を見せつけられました。
道路は、今私達が通っている所は大丈夫だが、一本隣の道路や、この角を曲がった所からは立ち入り禁止、というような場所も見かけました。
どちらもこれまでテレビのニュースで目にしたことはあるものでした。しかし実際に見かけると、こんなに人も車も多いところにあるのか、ここに住む方々にとっては見慣れたものとなっているのか、と愕然としました。
今回の福島訪問では、直接見たり聞いたりしたからこその学び、が多くありました。現地に行ったからこそ、そこの雰囲気や細部まで知ることが出来ました。直接お話を伺えたからこそ、より相手の想いの部分にもに触れることができたと思っています。津波や原発の被害を受けたことのない私には、福島の方々の葛藤ややるせなさを正しく理解し真に共感することは出来ません。ですが、だからといって最初から知ろうとしない、見て見ぬ振りをするのはまた違うと思います。
私達にお話をしてくださった方の多くが、復興への想いや自身の活動に関する想い、政策や支援への想い、他の福島県民への想いなどを本当に真摯にお話をしてくださいました。そのおかげでニュースで知ることとはまた違う福島のリアルな一面や復興についてより広い視野で考えられるようになったと思います。それと同時に、自分が今までどれほど知ろうとしてこなかったか、についても考えさせられました。自分から知ろうとすること、物事を複数の視点から考えること、今後の生活でも大事にしたいと思いました。
最後に。今回の訪問では多くの方々にお世話になりました。優しい方、個性の強い方が多く、この出会いや関わりは全て良き思い出となりました。復興における13年間や現地の方々と関わり、福島県が少し身近に感じました。美味しいお料理、あたたかな歓迎、本当にありがとうございました。福島訪問へ同行できて良かったです。次は1人の観光客として、福島に訪れたいと思います。
訪問中の写真は【こちら】で公開しています。
ぜひご参加ください。