2024年秋 福島訪問レポート(2)
2024年秋の福島訪問参加者のレポートです。
訪問を通して知ったことや考えたこと、感じたことについて報告していただきました。
篠田菜々香(大学4年生)
私は今回が初めての福島訪問でした。今までは通信を読んだり、ニュースを見たりする程度でした。それでも、自分としては意欲的に活動出来ていると思っていました。今回も、大学四年でこれから就職するにあたって、あまり遠出は出来ないことを考え、未だ放射線量が多い場所にいくつか行ってみたいと思っての参加でした。しかし、実際に訪問してみると、私の中にはまだ他人事のように思っていた部分があったと気づきました。それと共に、まだ知らなかったことばかりで衝撃を受けました。
例えば、車含む屋内に入れば放射能は届かない、と、誰に聞いたわけでもなく、ただ漠然とそう思っていました。確かに屋外にいるよりは放射線量も少なくはなるとは思います。しかしながら、移動中に通りがかった山道で、その日の天気が悪かったこともあり、少し放射線量が高いとされているところを車で通りがかっただけで、瞬く間に線量計の数値が上がっていきました。放射線は目に見えないので、普通に通っていれば全く分からないというところに恐怖を感じました。

一日目は浪江町と双葉町に行きました。請戸漁港、請戸小学校、東日本大震災・原子力災害伝承館に訪れました。
請戸漁港では、福岡の海と同じくらい普通の海で、水遊びをしようかと思いました。しかし、何十個も未だ残っている黒いフレコンバッグが並ぶ砂浜や、分かる人が見たら分かる処理水が放出されている海を見て、一気に現実に引き戻された感覚を感じました。
請戸小学校では、凄惨な現実を感じました。写真を撮るのも忘れて、電気が垂れ下がった天井や大きく凹んだ床を目に焼き付けるように歩いていました。二階には動画資料や、原発が出来る時の新聞等が飾られていました。ここで思ったのが、一階と二階の教室の破損具合です。一階の教室は海側に面していたということもあり、見るからにボロボロでした。しかし、二階は階段の手すりが一部新しく変わっていた程度で、資料館として使う為に補強などはされているとは思いますが、ほとんど綺麗なままでした。二階は廊下が海側に面しているということだったので、ここまで露骨に変わるかと思いました。そして、新聞記事を一通り拝読したのですが、ネットがあまり普及していない時代なのに、新聞記事では『原発は絶対に爆発しない』という風に記載されていました。今読んでみると、『原発安全神話』の火付け役のような気がしました。その頃には景品表示法があったようですが。この辺りはもう少し考察してみるべきだと思いました。
伝承館では、第一原発の二号機の爆発を阻止した管や、津波によって拉げたパトカーがありました。この時に黒い袋がフレコンバックだと知りました。請戸漁港には伝承館に行く前にも後にも訪れることが出来、フレコンバックを知ると、より厳しい現実が分かりました。
二日目は双葉町の双葉駅周辺へ行きました。大量の虫に震え上がった記憶が強いのですが、前回の訪問にも同行していた方からは『以前はいなかったから生命が感じられて良くなった』と言われました。そんな捉え方もあるのか、と思いました。確かに、周囲の建物が取り壊されたり、雑草が大量だったり、当時のまま取り残されたような街だと感じていました。
双葉町は最近避難解除されたところで、まだ人気はあまりありません。当時の写真で見る風景よりも建物が減り、雑草が伸びていました。原発が出来るような近代的な街でも、人がいなくなったらあっという間に自然に戻っていくのかと思いました。
今でこそ、原発の差し止め請求などの裁判がありますが、その当時は新聞で主な質問が取り上げられた程度でした。希望に満ち溢れていた街が、人気の無い寂しい場所になるのは悲しいなと思いました。
三日目は飯館村で伊藤延由さんの話を伺いました。実は、四泊五日の福島訪問中で、一番印象深かったのが三日目です。
伊藤さんのお話を伺った場所の近くにある山はまだ除染がされておらず、触れないように気を付けながら線量計を近づけただけで、瞬く間に数値が上がっていきました。伊藤さんからは、飯館村の震災当時からの軌跡、キノコなどの線量計の記録、裁判のことなど、他では聞けない話も沢山耳にすることが出来ました。
飯館村では、地震や津波の被害はほとんどなく、より被害の大きかった近隣の村からの避難民なども受け入れていたそうです。しかし、四日後の三月十五日に放射能の被害が発覚し、十六日には訳も分からず脱出するしかなかった、という話を伺いました。そのため、飯館村は『三・一一ではなく、三・一五』とのことでした。一日目、二日目で知った『原発安全神話』から、まさか原子力発電所が爆発して、まさか放射能という目に見えない物から、家も土地も捨てて逃げなければならなくなるとは、夢にも思わなかっただろうと思いました。
伊藤さんの話では、特にキノコについて、とても興味深い話を耳にすることが出来ました。
放射性物質は届く範囲全土に降りますが、特に森林に降った場合は、土壌に養分が少なく、放射性セシウムを吸いやすい状況にあります。そのため、放射性物質が残りやすくなってしまいます。それに加えて、キノコには放射性物質を取り込んで濃縮し、化学エネルギーを発するので、とりわけ放射線量が高いのです。

キノコの放射線量を記した表を拝見しましたが、その表には規則性がありませんでした。規則性の発見を試み、目を凝らしもしてみましたが、全く見つけることができませんでした。数値が減ったと思えば、翌日は急に数値が跳ね上がったり、という記録が多々見受けられました。放射線量は天候が悪いと、雨が木を伝って土壌に染みこむことによって、その土壌を成育地とするキノコの線量が高くなる、という流れがあります。気候に左右されている、というのがこの不規則な記録の原因かもしれません。
伊藤さんの話の中で最も興味深かったのが、キノコの塩漬けについてです。キノコを塩漬けにして、それを塩味がなくなるまで水に晒して塩抜きすることにより、百パーセント近い放射線物質が除去されていたのです。

しかしながら、この塩抜きにはデメリットもあります。
キノコには食感だけでなく、味や香りを楽しむキノコが存在します。コウタケという、マツタケと同等かそれ以上の香り高いキノコがあります。飯館村では手のひらサイズで生えているキノコなのですが、キノコは前述の通り放射線量が高いものも多いです。しかし、塩漬けにすれば、百パーセント近いセシウムが除去できました。しかし、コウタケ(香茸)の香りがなくなってしまいます。これがデメリットとして挙げられます。
キノコを塩漬けにすることは革新的な方法かもしれませんがキノコが持つ香りは唯一無二の為、味や食感だけでなく、香りが持ち味なキノコにはこの方法は適していないと言わざるを得ません。
放射性物質は半減期が長いものもあります。特に、セシウム137の半減期は三十年であり、無くなるまで待つには遠すぎることもあります。
塩漬けというところで思い出すのが、フグの解毒です。フグは有毒部位を塩と糠で数年漬けて解毒するというもので、まだ詳しくは証明されていない古来からの方法だそうです。先人の知恵なども借りつつ、植物が本来持つ良さを生かせる方法があればいいなと思いました。
四日目は、鈴木亮さんの案内の元、いろいろな町へ訪れました。その中で印象深いのは請戸漁港近くの見晴台、楢葉町の宝鏡寺にあるヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマ伝言館です。
請戸漁港の見晴台では、津波の最高到達点がありました。見晴台も十メートルあるのに、津波はそれよりも高いとありました。あまり高い所は苦手ではないのですが、トタン材の台から見下ろすと怖いくらいでした。

宝鏡寺の境内にある伝承館では、和尚が集めた原子力に関する事故の記録がたくさん残されていました。上にあるお面は地震の際に傾いた時のままで、たまたまだとは思いますが、般若などの険しい表情をしたお面ばかり傾いていたのが印象的でした。
五日目は写真家の中筋純さんの案内のもと、浪江町大堀や、大熊町へ行きました。
大堀では、倒壊したままの家や、中の物がそのままになっている建物がありました。手を伸ばせば届きそうなのに、まだ鉄の門で閉ざされたままで入れないという状況が印象的でした。

今回は新しく出来た商業施設など、福島の変化を多く見ることが出来ました。時代が移り変わっていく中でも、風化させないように皆の心の中において、語り継いでいくことが大切なんだということが分かりました。
人よりも原発事故のことに触れた一人として、人に伝えていこうと思います。
福岡大学4年 古賀伊織
福島訪問を振り返って
私は今回で福島県への訪問は3回目となりました。3回目ともなると、地名に詳しくなり、見慣れた場所もできましたが、それでも福島の変化は目まぐるしく来る度に新たな発見が得られます。前回訪れた場所も、様子がかなり変化していました。被災地には新しく、立派な施設が次々と建設されています。私の地元よりも発展しているように見えますが、人が全く歩いていない様子は何度見ても異様な光景だと感じてしまいます。

伝承館への送迎バスが停まっていた。あまり人の気配を感じなかった。
双葉駅は今回で3度目の訪問となります。最初に訪れた際は、避難指示が解除されてからおよそ1年ほどしか経っていなかったということもあってか、駅の周辺に建物も無く、駐輪所には震災時に停められていた自転車がそのまま置かれていました。
今回の訪問の際には駐輪されていた震災時の自転車がすべて片付けられていました。また、周辺には新しくコインランドリーができており、人が住んでいることを実感しました。駅東側には2025年に開業予定の商業施設の建設が始まっていました。
双葉駅同様、今回訪れた大熊町の大野駅周辺も再開発が進んでおり、こちらにも大型複合施設などの建設が予定されています。かつての大野駅周辺には地元の方に愛される商店街がありましたが、震災後にお店は全て解体され、今は更地となっています。変わりゆく故郷の姿をかつて大野駅の商店街で生活していた人々はどう受け止めているのか。私には利用する人が果たしているのかも分からない新しい立派な建物を、次々に建てることが復興だとは考えられず、現段階では疑問に思います。

面影は全く無い。
変わった場所も多くありますが、前回の訪問から変わっていない場所もあります。前回訪れた浪江町の大堀は、震災時に被災した建物が多くあり、空間線量も他の地域に比べるとかなり高かったのですが、今回の訪問ではそれらに特に変化を感じませんでした。
大堀で一番印象に残ったのは更地となっていた大堀小学校です。大堀は陶芸が有名な地域で、大堀小学校でも授業で焼き物を制作しており、小学校には焼き物用の大きな釜がありました。原発事故が起きていなかったら訪れた時間帯は子どもたちの声で賑やかな場所だったのかと思うと、やるせない気持ちになります。校庭には校歌にも登場する大きな柿の木がそのまま残っています。柿の木は震災前と変わらず小学校を見守っているように見えました。

校舎は解体されている。
静かで寂しい場所に感じた。
今年の元旦に起きた能登半島の震災の際に私がまず考えたことは、元旦に地震が来るのか、でした。災害はいつ自分の身に降りかかるのか分からないことを改めて実感しました。福島で原発事故によって被災した人の中にはまさか自分の家に帰るのが10年以上先になるなんて思ってもいなかった人もいるでしょう。もし今大きな地震と津波が発生して、一番近くの原発で事故が発生した場合どうすればいいのか、分からない人が大多数であるだろうと思われる現状で原発を動かすことは本当に正しいのか、私は福島への訪問や能登での震災を受けてとてもそうは考えられません。最近では南海トラフ地震臨時情報が発表されるなど、日本全体で震災に対する備えを勧める動きとなっているように感じます。しかし、原発事故が起きた際にどうするか、という情報は全く目に入りません。福島の原発事故が風化されているように感じると同時に原発事故へ対する脅威が薄れているようにも感じます。
福島へ訪問する度に福島の自然豊かな景色や美味しい食べ物などに魅力を感じ、今では思い入れのある場所になりました。だからこそ、この美しい自然が放射能で覆われ、食べ物が風評被害を受けている現状は悲しく、悔しく思います。私でさえこのような感情を抱いているので被災された方はそれ以上にとても言葉で言いあらわせられない気持ちを抱いてるでしょう。だからこそ同じ思いを抱く人がこれから先いないように原発事故の被害については伝承する必要があると私は考えています。また、被災された方の存在や思いも決して風化させてはならないと思います。伝承館で語り部をしている方が自分の被災した経験を語ると風評加害者、だと言われることがあると語っていました。福島はもう復興した、としたい人はそう言うでしょう。でも実際に震災後に戻ってきた人は少数で、避難指示が解除されていない場所がまだある現状で復興しているとはとても考えられません。福島の復興はまだ終わっていないこと、原発事故の被害を受けた地域の再生の厳しさは伝えていく必要があると私は3回の福島訪問を通してそう考えています。

バリケードの先は帰還困難区域であり、立ち入ることは出来ない。ここをずっとまっすぐ行くと、福島第一原子力発電所にたどり着く。
4日目は、前号の通信にご寄稿してくださった鈴木亮さんに福島県の様々な場所を訪れました。訪れた場所で印象に残った場所を紹介します。
○浪江町
最初は浪江町の津島地区を訪れました。津島地区は、震災後に全域が帰還困難区域となっていましたが、昨年3月に一部地域の避難指示が解除されました。それに伴い住民の帰還、居住に向けた除染とインフラ整備が進められています。私達が訪れた津島小学校は除染作業の活動拠点となっており、作業員の方がいました。近くにはスクリーニング場もありました。
○双葉町
次に訪れた双葉町には、毎回訪れる建設中の復興祈念公園があります。建設現場には仮設展望台ができていて、初めて上から公園を見ました。地上から見るよりも公園の広大さを感じることが出来ましたが、完成予想図にはまだ遠いように感じました。また近くには新しく大きく立派な橋も建設されていることもあり、公園の完成は果たしていつになるのかが気になります。

○富岡町
りぷるん福島(特定廃棄物埋立情報館)を訪れました。その後に道路沿いにある放射性廃棄物最終処分場建設反対の看板を見ました。看板には故郷を守りたいという訴えを感じました。放射性廃棄物は中間貯蔵施設のように県外に持ち出すか、それとも福島県内にとどめておくべきか、いずれはどちらかを決定せざるを得ませんが、決定に反対する人がいたこと、その人々の意見や思いは決して忘れてはならないと思います。
○楢葉町
最後は宝鏡寺にある伝言館を訪れました。伝言館には福島の原発事故だけでなく、ビキニ環礁核実験や広島・長崎への原爆投下等に関する資料もありました。資料を通し、改めて原子力の脅威を感じました。「原子力明るい未来のエネルギー」という標語が震災前に飾られていた道も今回訪れました。今後原子力に対する脅威が無くなると、こういった標語が一般的になる社会がまた訪れるかもしれません。これでは同じことの繰り返しとなります。そうならないためにも原子力・原発事故による被害は風化させないよう、次世代へと語り継いでいく必要があるのです。

せりたひろし

写真から福島の今を知る(4)
出会いに感謝しながら6度目の福島訪問!!
通算6度目となった福島訪問 (2024.9.8〜9.12)
通算6度目となった福島訪問 (2024.9.8〜9.12)でみたこと、かんじたことを、写真と文章でお伝えします。


津波の影響で以前の姿をみることができない浪江町の商店街ですが、津波以前の写真を撮影した写真家・中筋さんによって、同じ場所で比較しながらみることができました。写真は5メートル以上ある特製の写真で、以前の風景が甦ってくるようでした。

東日本大震災・原子力災害伝承館は県立の施設ですが、館内に米の全量全袋検査の模型がありました。2012年度から2020年度まで、出荷される福島県産の全ての米は、検査が行われていました。その際に使用された検査の全体像が、模型を使って展示されていました。

浪江町に広がる農地を利用した巨大ソーラーパネルですが、今回ドローンを飛ばして空中からのリアル動画でみることができました。上空からみたパネル群は、圧巻でした!

「ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ・フクシマ伝言館」は、原発事故の教訓を伝える民間の資料館です。創設した故早川住職の宝鏡寺境内にあります。富岡町在住の鈴木亮さんにアテンドしてもらいました。館内には、広島や長崎、ビキニ環礁で起きた原爆被害や水爆実験で被曝した第五福竜丸に関する資料などが豊富です。
同行してみて
初めて福島を訪問した際には、6度も伺うとは想像もしていませんでした。毎回思うことですが、私たちが見聞きすることはほんとに一部分であって、これで福島のことが全部わかったということは、ありえないと思います。
また今回新たな出会いがあり、今後に繋がる出会いとなりそうです。その出会いのひとつが、今回の宿泊先だった富岡町の民宿「ふきのとう」さん。夫婦で関東より移住されたのこと。こうした繋がりによって、少しづつですが「福島の今を知る」ができているのだと思います。改めて感謝。

【参考サイト】東京新聞社
同行者プロフィール

せりたひろし
NPOやNGO、社会福祉協議会など非営利組織の広報ツール製作を多く手掛ける。最近は広報研修や講座の講師も精力的に務める。現在、京都芸術大学通信教育部デザイン科イラストレーションコース在学中。
写真もイラストももっと上手くなりたいですねー!