チェルノブイリ通信138号

福島だより 飯舘村の冬

1.  飯舘村

飯舘村の冬は長く寒い、標高が400m~500mで隣町の川俣町や海岸沿いの南相馬市よりも5℃以上低い気温です。

雪は少なく15cmから20cm程度の降雪量ですが気温が低く道路凍結が被害をもたらしました。隣町からのルートはどちらから来ても急峻な坂の昇り降りを伴いますから。

2. 2014年の大雪

そんな小雪の村も2014年の2月は大雪でした、2月7日に70cmほどの降雪があり14日にまだ70cmの降雪でした。1m以上の積雪で、当時は全村非難の最中でした、村で作業していたのですが避難先に戻れず、5日間閉じ込められました(全村非難でしたが、日中の出入りは自由、宿泊が禁じられていました)。

写真は、村の除雪が間に合わず自前で除雪してた。1mを超える積雪は2010年に設置したビニールハウスを倒壊しました。

(左)2014.2.8 (右)2014.2.15

3. 豊かな自然の恵み

飯舘村は農業と林業が主要産業でした。4月~10月は農業、11月~3月は林業を営んでいました。林業の主な商品は椎茸、ナメコの原木生産とパルプ用のチップ材生産でした、福島県は原木の生産高では日本一でした。

私の師匠である目黒明さん(故人)は農作業が終わると原木生産に励んでしました。私も2010年の農閑期に100本の原木を求めて椎茸の駒うち(椎茸菌のついた駒を原木に打ち込む)して近くの杉林に寝せて椎茸の生産を夢見ていました。

管理人をしていた「いいたてふぁーむ」のメニューに原木椎茸の炭火焼を加える予定でした、100本の原木から収穫できる椎茸は食べきれないので、乾燥椎茸をお土産になどと夢は広がっていたのです。

2年後に収穫した椎茸は約3,000Bq/kgの汚染が検出されました。

たまたま、現在係争中の原発被害の損害賠償訴訟の現地進行協議(裁判官の現地視察)の際(2024年5月29日)に14年を経て朽ちかけた原木に椎茸が出ていました、測定結果は約760Bq/kgの汚染でした。これが自然の恵みの実態であり原発事故の実像です。

4. 冬の飯舘村の生活

極寒の飯舘村の生活は隣近所での相互交流が頻繁でした。お隣さんと言っても回覧板を配るのに軽トラで行く距離ですが、各家庭自慢の漬物を持ち寄ってお茶飲みが頻繁に行われていました。

村に来て1年ほどの私も用があって顔を出すと“よらっせ”、“あがらっせ”、“お茶のまっせ”と仲間に混ぜられて時を過ごすことがありました。

厳寒の冬は路地栽培の野菜は無く、食卓を賑わすのは自然の恵みでした、春先に採取したワラビやフキなどの塩漬けしたものを塩出しして食べていました。猪鼻茸(香茸)は乾燥保存して祝い事などの時に食卓を賑わしていたのです。

5. どぶろくの話

私が入村した時には、どぶろく特区を取得した方が営業していましたが、かつては村独特のどぶろく文化があり、ひそかに密造して飲んでしたようでした(私が幼少期を過ごした新潟県の田舎にもあった)。

お亡くなりになりましたが、菅野栄子さんから聞いた話です、栄子さんが小学生の頃(80年くらい前)、各家庭には電話が無く、唯一学校には電話があったそうです、その電話の利用例です。

当時もどぶろく密造は酒税法違反でたまに税務署の査察があった時です、“査察が入った”と情報が入ると、急遽学校が授業中止して帰宅しろとそして家族に“鬼が来たと”伝えろと、それは隠語でどぶろくを隠せだった。

6. 蜜蜂のお余り

村では日本蜜蜂の蜂蜜生産が盛んでした、蜂蜜も自然の恵みでした。多くの家庭の庭先に巣箱が設置されており、11月頃には8~10kgの蜂蜜が獲れ、末端価格にして10万円ほどになりました。

蜂の巣を増やすのは、5月の暖かい日に分蜂します(巣別れ・巣箱に新しい女王バチが誕生すると古い女王バチが一部の働きバチ伴って出ていく)、その際に捕獲して新しい巣箱に移します。新しい巣箱に定住してもらうのは大変で、しっかりとハウスクリーニングをし蜜蝋などを塗布して気に入ってもらうよう努力します。

樹の幹に集合した分蜂した蜜蜂の一団

蜂蜜は良い値段で取引されていました、蜂蜜を絞ったカスは廃棄されていましたが、それをもらい受けて蜜蝋の生産にトライしました。

蜜蝋生産には湯せんのための熱源が必要で冬の作業でした、薪ストーブを使い何回か湯せんし蜜蝋を絞ります、あまり湯せんを繰り返すと香りが薄くなるので蠟の綺麗さと香りを残す事に注意が必要でした。

飯舘村はいつの時期も自然の恵みが豊かな村でした。

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