もくじ
1.はじめに
私は、縁あって2009年11月飯舘村に入植し、民間企業が作った研修施設「いいたてふぁーむ」の管理人に就いた。2010年3月、併設の農地約1.7 haの水田と約1.0haの畑で農業を始めた、農業は未経験の分野であったが、近隣の農家の方々の支援で大成功で終えた。翌年は規模を拡大し約6.0haの水田耕作を予定し準備のさなか震災に遭遇した。飯舘村の災いは3.11の地震での被害は軽微だった。災いは3月15日の夕方に襲った福島第一原発事故で放出された放射性物質の降下によるもの。飯舘村は一か月以上経た4月22日に漸く計画的避難区域に指定され、1か月以内に村外に避難せよと言うものだった。
しかし、すでに原発立地自治体からの避難者で都市部の空き部屋はいっぱいで、飯舘村の住民が避難先に落ち着いたのは、仮設住宅の建設を待ってだった、それは6月末から7月初旬だった。私は7月上旬、福島市松川町の雇用促進住宅の空き室に避難し、施設の保守管理のため村に通っていた、避難指示は2017年3月末に解除された、私は2018年11月末に村に帰還した。
たまたま、飯舘村の汚染調査の為に来訪された今中哲二氏(当時、京大原子炉実験所助教)や木村真三氏(獨協医科大准教授)の指導を受け、測定機器の貸与を受けて今日まで測定を続けている。
2.原発事故の見方
2011年3月15日に飯舘村を襲った放射線の値(空間線量率)は、44.7 マイクロシーベルト/時(μSv/h)でした。通常事故がなければこの値は0.04~0.05 μSv/hで、通常時の約千倍の値だった。しかし、その時の私はその意味も理解できなかった(たまたま、当時の菅野村長の箝口令で村民に知らせることは無かった)。
そんな私が、前述の今中先生や木村先生など多くの先生の指導で放射能のことを少し理解するようになった(実際には、現在でも測る都度“これは何だ”と言う場面に遭遇し混乱しているが)。私自身が12年間放射能を測ってきた結論は、「原発事故や核災害の大きさは、被ばくのリスクの大きさ」だと思う、人間が被ばくする放射線量の多少だと思う。 被ばくの元は大地に降下した放射性物質で、そこから放出される放射線である。
3.今福島で起きていること
TV、新聞報道などですでにご存じと思いますが、昨年8月末に双葉町の避難指示解除をはじめとして、従来「帰還困難区域」として指定されていた地域で、「帰りたい住民がいるから」と徐々に解除を進めています。今年5月1日飯舘村で唯一帰還困難区域に指定されていた長泥地区が解除された。その解除の条件が、年間被ばく量が20ミリシーベルト(mSv)以下とされており、時間当たり3.8μ Sv/hとされた。本来20 mSv/年間を毎時にすると約2.28 μSv/hだが、3.8 μSv/hになる理由は下の式による。
屋外で8時間、遮蔽率60%の屋内で16時間過ごす
8 時間×3.8 μSv/h=30.4 μSv …①
16 時間×(3.8μSv×0.4)=24.32 μSv …②
(①+②)×365日=19,972.8 μSv=19.97 mSv
「生活線量」なる言葉を編み出し3.8μSv/h以下を帰還の条件にした。
そもそも、事故前は一般公衆に許されている追加被ばく量は年間1mSv(1,000 µSv)、現在も福島県以外はこの値が適用されている。事故前の福島県内でも屋内外差はなかった、屋外で8時間、屋内で16時間が万人の行動パターンでない、全ての家屋の遮蔽率が60%はあり得ない、それを強引に当てはめて規制値を上げていく手法は、国民の命を守る国がやる事ではない。予防原則に従い可能な限り被ばくをさせない規制値を取るべきだ。原発事故が起きたら年間1 mSvは守れない、ならば基準を下げると言う暴挙です。
現に医療機関などで見る放射線管理区域の規制値を時間当たりにすると0.6 µSvです、この区域は業務が終われば直ちに退室することになっています。飯舘村ではそれらの規制値より高い場所でも、立ち入り禁止の看板もない、それどころが昨年のGWにオートキャンプ場をオープンした。避難指示解除には年齢制限がない、若者たちの放射線被ばくの感受性が高いのは公知の事実で、子どもたちを含め何の制限もなく居住させても良いのかを問いたい。原発事故の加害者である国と東電は原状回復の責任があります、加害者責任を果たすべきです。
4.飯舘村は
私が住む飯舘村は面積230平方キロメートルと広大な面積の村に6,500人が住む村だった、因みに大阪市は225平方キロメートルの面積に275万人居住している。 「日本で最も美しい村連合」に加盟が許されていることで、自然の豊かさをご理解いただけると思う。
2017年3月末で避難指示が(長泥行政区を除き)解除された、その長泥行政区も本年5月1日に避難指示が解除され、全村避難指示が解除された。しかし原発特措法で二地域居住(住民登録は村、生活は避難先自治体)が認められ県内外に3,264名(68.5%)が現在も避難を続けている。今年4月現在の村内居住者1,500人の68.8%が60歳以上、高齢化率56.6%の村。(事故前の2011年1月現在は60才以上36.5%、高齢化率28.7%だった)。
(1)村の実勢
(2)生活インフラ
生活インフラでは電気、ガス、水道(提供範囲は限定的)などは回復している、公共交通機関は震災前からなかった。
①医療サービス
毎週火曜日(終日)、木曜日(午前)、内科と外科のみ。帰還者の大半が高齢者であり、歯科、整形外科、皮膚科、眼科などニーズが多いが対応できない。
②介護サービス
特別養護老人ホーム(収容定員130名)は職員不足のため39名の収容にとどまっている。在宅介護、ショートスティーなどのサービスは近隣自治体に依存。
③食料調達
コンビニ1件、道の駅の売店1件、移動販売車が巡回している。調達出来ないものは、隣町の川俣町、南相馬市に出向く、何れも車で片道30~40分を要し、急峻な坂道を通る。
④飲食店
道の駅のレストラン、うどん屋、洋食レストラン、食堂(ソールフード)。
⑤郵便局&宅配
二枚橋局、小宮簡易郵便局開設中。宅配サービスは回復。
⑥交通サービス
村内に公共交通機関は無い、福島市~南相馬市へのバスが一日6往復。帰村者が高齢者であることから、村で通院、お買い物サービスを実施。
生活物資調達、通院など車が無いと不便な生活を強いられる、免許返上になれば村では生活できない。
5.放射線を測る
現在の飯舘村は除染土を詰めたフレコンバッグも中間貯蔵施設に運ばれ(道路沿いの見える場所は)、原発事故を思わせるものは無く、箱物と言われる施設が建設され復興をアピールしている。放射線は人の五感には一切感じない、それら測るのが線量計(写真左)とモニタリングポスト(MP)(写真右)だ。
MPは村内に国(環境省)設置(44基)、県設置(13基)、村設置(90基)あわせて147基設置されている。2023年6月1日の147基の平均は時間当たり0.304 µSv、最小値は0.084 µSv/h(上飯樋地区)、最大値は1.203 µSv/h(5月1日避難指示解除された長泥地区)です。
事故前の飯舘村の放射線のデータがないのですが、一般的には0.04~0.05 µSvと言われている。私が事故後各地で測定した値も0.036 µSv/h(北海道平取町二風谷)が最低で多くは0.05 µSv/h程度で、事故前の飯舘村もこの範囲だったと思う。
◇ モニタリングポスト(MP) ◇
MPは原発や核物質を扱う施設からの放射能漏れを監視する装置で、原発や核物質を扱う施設の敷地境界に設置されでいる。
◇ 放射線単位 ◇
村内設置のMP147基の大半はµSv(マイクロシーベルト)で表示している。
1 Sv=1,000 mSv=1,000,000 µSv=10,000,000,000 nSv(ナノシーベルト)
7 Svの環境で一時間過ごすと100人中100人が死ぬ値。 表示単位はGyとSvが使われますが、GyとSv換算1 Gy=0.8 ㏜。
◇放射能単位 ◇
放射線を発する放射性物質の量を表す単位はBq(ベクレル)で、通常1kg当たりで表される。
1 Bq=1,000 mBq(ミリベクレル)=1,000,000 µBq(マイクロベクレル)=10,000,000,000 nBq(ナノベクレル)
◇ 飯舘村設置のMPの問題 ◇
MPの本来の目的は原発や核施設からの新たな放射能漏れを検知するため、設置基準として周辺を除染し過去の汚染を除去する。飯舘村のMPもその設置基準を適用されている(あるいは設置場所が除染対象のため)、周辺の土壌を入れ替えが行われ線量率が下がった値が表示される。
6.終わりに
飯舘村を汚染している放射性物質はセシウム134、137で、セシウム134の半減期は約2年で、12年を経た現在はセシウム総量の3%程度まで低下した。セシウム137の半減期(30年)で減衰するのを待つしかない。300年を経ると1/1,000になるのを待つのみだ。
これが原発事故の実像。
*著者プロフィール*
伊藤 延由(いとう のぶよし)
1943年 11月生まれ
2010年 飯舘村の農業研修所「いいたてふぁーむ」の管理人に就く
管理人の傍ら、水田2.2ha、畑1.0haを耕作
2011年 2年目の準備を目前に被災、6月末福島市内へ避難
11月「飯舘村新天地を求める会」を立ち上げ活動