都市と農村の顔の見える関係づくりの大切さ
東和地区では30年以上にわたり、生協や消費者グループとの産直活動に取り組んできた。棚田米、完熟トマトをはじめ旬の野菜を届け、生協の組合員さん、消費者のお母さんが畑にやってきてトマトを丸かじりしたり、大根を引き抜いたり楽しく交流をすすめてきた。残念ながら原発事故によって3割以上の産直が分断された。私が5年前に農家民宿「遊雲の里」を開業したのは、この分断された関係を新しく取り戻したい、いまだに避難されている福島の現状を知ってほしい、多様な役割の農業の価値を知ってほしいと思ったからである。
2011年11月に京都市でのシンポジウムで福島から避難し、京都でカフェを開いている一般社団法人みんなの手の代表の西山祐子さんと知り合い、交流が続いている。
3年前からは京都、関西から、毎年の正月に「ふるさととつながるツアー」の皆さんが私の民宿で餅つき交流にきていただいている。
最初の年は、「福島から関西まで避難している皆さんが、福島のお餅や正月料理を食べてくれるだろうか。」と心配しての受け入れだった。けれど、これまでの放射能への対策や測ってはつくり、つくっては測る農家の取り組みのお話しをしっかり伝えることで、皆さんが楽しく餅つきをして、おいしく食べる顔を見て、ほんとにうれしかった。食卓を囲みながら顔の見える交流の大切さをあらためて思い、「顔の見える関係に風評はない」と実感することができた。
冷害の教訓に学ぶ、農村の復興
二本松市東和地区の木幡山には238年前の天明大飢饉の惨状を石碑に記した「天明為民の碑」がある。
「同三(天明)夏より霖雨降続き 奥羽二国 五穀実らず山里は種をも失ふ故に わらの粉のもち又草木の根葉まで食すれども 飢て死る人数を知らず この事を云へて 末の世まで暑に寒を忘れず 凶作のたくわえを心に懸む便りもと 物のあたいの高き事を書に残すのみ」(東和町史Ⅱ) 旧東和町、旧岩代町を中心に約1,000人もの餓死者、行方不明者があったと云われる。その後、天保の大飢饉など冷害が続き、二本松藩にその窮状と年貢の減免を訴え、15,000人余りの農民一揆を何度も起こしていく
この冷害の教訓から官民挙げて農村復興策として、大豆、小麦、馬鈴薯、雑穀をはじめ、特産物(養蚕、葉タバコ)の振興を奨励して開墾と食料増産を推進していった。昭和の時代に入っても冷害は続き、酪農や綿羊、果樹も振興されていく。平らな土地は一坪でも耕し、山を墾き、血のにじむような先人の労苦があって、災害を乗り越えて多様な作物の多様な食文化が育まれてきたのだと思う。
東北の農民は戦前、農民兵士として戦地に駆り出され、戦後は高度経済成長の下、ビルの建設現場や高速道路、新幹線建設の現場に出稼ぎ者として労働力を奪われてきた。首都圏の食料も東北からである。そして電気も福島からだった。そしていま、原発のゴミまで過疎の村や町に押し付けようとしている。
大量生産大量消費の都市の暮らしは東北を踏み台にして成り立ってきたとしか思えてならない。食料自給率1%の東京に持続可能な暮らしはあるのだろうか。
東京一極集中に歯止めがかからず、地域が壊され、基地や原発やゴミを地方に押し付けてきた構造こそが3・11の教訓ではなかったのかと思えてならない。
子どもたちの歓声が響く里山の再生
「うわー、ドジョウがいた!」「タニシもいる!」
里山の棚田に子どもたちの元気な声が響きわたった。二本松市立東和小学校4年生40人が地元の集落(布沢の環境を守る会)で整備した田んぼビオトープの生き物観察会にやってきたのだ。素足になって田んぼに入り、「気持ちいい!」と大喜びだ。
3年前に集落の棚田の真ん中に200坪の田んぼビオトープを整備した。タニシ、オケラ、ゲンゴロウ、ドジョウ、ギンヤンマのヤゴもいる。アキアカネや糸トンボなど10種類以上のトンボも観察できる。
10年前、この子どもたちは3歳だった。原発事故と放射能によって、「外では遊ぶな」「マスクをしなさい」「土に触るな」という環境のなかで幼少期を過ごしてきた。水遊び、どろ遊び、山歩きなど豊かな成長期の友達との大切な体験を奪ってしまった原発の罪は重い。だからこそ、子どもたちのカエルやトンボをつかまえながら泥んこになって生き物探しに夢中になる光景はことのほかうれしかった。
私たち農家は米や野菜だけをつくっているのではないということにも気づかされた。棚田の風景やたくさんの生き物、そして子どもたちの豊かな体験、そういった里山の価値を丸ごと消費者や都市の住民につたえなければならないと思うのだ。
美しい里山も美しい棚田も先人の気の遠くなるような長い年月の汗と労苦の結晶と思うのだ。それをたかだか原発の時代の50年で汚してしまった罪は重い。
だからこそ私たち大人は次代の子どもたちのために土とふるさとを再生しなければならない。