真冬のベラルーシで今回インタビューをさせてもらったお相手は、1986年のチェルノブイリ原発事故当時に内務省から現場責任者としてゾーンへ派遣されたヴラジーミル・ヴラジーミルヴィッチ氏です。郊外にある彼の木造の家を拝見させてもらった後、長男のユーリーさんが経営する会社敷地内に設けられたロシア式サウナ付きの家にご招待いただきました。
まずは自己紹介をお願いします。
私の名はヴラジーミル。1952年ベラルーシ西部のニャスビシュ(ミンスク州)生まれです。現在は年金生活者だが、不動産、産業・工業、生活日用品を扱うBBUグループという会社の運営をしています。
では、チェルノブイリ原発事故当時のことを振り返っていただけますか。
当時、私はベラルーシ内務省中央機関で次長として勤めていました。役職としては警察署大尉でもありました。事故発生から4日ほど経った5月1日を前に省内でもこの悲劇のことが伝わりました。ただ事故が起こったのがウクライナの領土内だったこともあり、最初の一週間はベラルーシ(当時ソビエトの共和国の一つ)側から事故処理作業に職員が派遣されることはありませんでした。しかし放出された放射能の約80%がベラルーシ領土内に広がり(残りの20%はロシア・ウクライナの州に蔓延)、私が勤めていた内務省からも職員が送られ、事故現場で住民達の避難補助にあたることになりました。
私自身も事故発生1カ月半後に派遣され、現場で指揮をとることになりました。人々の避難方法を組織する作業班に物質面や技術的な支援を管理する責任者として、10~30㎞圏内で72日間の務めを果たしました。当時、事故のあった原子力発電所から10kmまでの範囲が《疎外ゾーン》、30kmまでを《分離ゾーン》と区分されていました。
健康に悪影響が及ぶとされる25ベル(生物的レントゲンの値)を超える放射能数値をあびないように、隊員は一定の時間おきに交代でゾーンに出入りして勤めていました。他にも道路整備、共同生活の規律指導、火災予防等の安全保障に各隊が取り組んでいました。人々を精神的に励ますことや我々の支援・指導がしっかり機能しているかを点検することも大事な任務でした。基本的な仕事としては、現地の安全・安定した状況を確保することでした。住民は身分証明書と1 ̄2日分の食料・水分以外は何も持たずに緊急避難移動を余儀なくされたという報告も受けていました。現地では日本からの団体に会ったこともあります。」
事故現場での任務を終えてミンスクに戻った後、健康生活に支障はありましたか?
72日間の責務を果たした後、また内務省中央機関で引き続き次長として務めました。事故当時、私の専門は財政でしたが、汚染地域へ派遣されることも拒みませんでした。私の友人で医療分野の専門家も、放射能の影響の恐ろしさを知りながらも現地での支援活動を引き受けました。しかし、現在ブレスト在住の彼は第一級の障害者です。他にも、一緒に派遣された仲間の多くは若くして亡くなっていきました。
私自身、ミンスクに帰ってから6度、医療機関へ心臓の治療に送られました。5年間はチェルノブイリ事故による病気の障害者と認定されましたが、1999年以降は甲状腺等の腫瘍癌以外の病気は原発事故の後遺症でないとみなされました。ただ、66歳の今もこの通り特に大きな問題もなく健康的な生活を送っています。
では、2011年に日本で起こった福島第一原発事故について思うこと、そして日本の方々に復興へのアドバイスをお願いします。
そもそも原発事故というのは、科学技術の発展過程で起こりうる恐ろしい出来事で、人類を滅ぼしてかねない放射能は目に見えない敵のようなものです。ただ21世紀の現在、放射能というのは、我々が常に闘っていかなければならない大きな問題の一つです。私が知っている日本人像は、寄り添って協力し合い、一つになって困難に立ち向かってく母国愛にあふれた国民です。重要なのは気をしっかり持ち、精神的にも健康であること。そして明るい未来を信じ続ければ、どんな問題も克服できるはずです。放射能も恐れるに足らず!
やさしく微笑みながら、こう締めくくってくれたヴラジーミルさんは、この日も100℃以上のサウナ室を行き来して汗を流します。その後、立派に育った息子さん達に葉っぱでたたかれながら、外に雪をあびにいくか、冷水を頭からかぶります。この伝統的なロシア式サウナで健康な生活を送っています。
(田中 仁)