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ベラルーシ写真館
このページではベラルーシ共和国の風景やチェルノブイリ医療支援ネットワークの現地での活動写真などを紹介しています。
(掲載写真の無断転載・転用はご遠慮ください。)
ベラルーシ共和国の風景、人々、etc
ベラルーシの村の風景
郊外に行くと、日本ではあまり見られない色鮮やかな家屋をよく見かける。
ベラルーシの伝統的な刺しゅう
ベラルーシでよく見かける刺しゅう模様。国旗や民族衣装にも、このような刺しゅうが施されている。
ミンスクの街中
首都ミンスクの中心街を行き交う人々。
休日になると、ショッピングモールなどにも多くの人が集まる。
ショーウィンドウにならぶ雑貨
棚ぎっしりに色とりどりのマトリョーシカや陶器の小物が並ぶ。
ミンスクのバザールにて
休日にはたくさんの人で賑わい、人々は家族や友人と買い物を楽しんでいる。
ミンスクのバザールにて
店の一角にならぶ色鮮やかな果物や野菜。
この他にも肉や卵、ケーキなど様々な食材が販売されている。
ブレスト要塞
ポーランドとの国境近くに建つ要塞。
過去に何度も他国の侵略をうけてきた。煉瓦には銃撃の跡が数多く残っている。
ミンスク郊外、ハティンの森
戦時中、ナチス・ドイツによる虐殺で多くの村々が焼き払われた。ハティンもその一つである。戦後、この地を平和公園としてその歴史を残している。
墓石には多くの村の名が刻まれている。
チェルノブイリ医療支援ネットワークの現地での活動のようす
ブレスト市での甲状腺ガン検診
年に1、2回、日本の医療専門家を派遣し、現地と合同での甲状腺ガン検診を実施。
ベラルーシにおける甲状腺ガンの早期発見・治療システムの確立を目指す。
エコー診断
エコー(超音波診断装置)を使い、甲状腺の診察を行う。ここで異常が見つかった患者には、吸引穿刺による細胞診断が行われる。
吸引穿刺を行うアルツール医師
エコー画面を見ながら、ガンの疑いがある細胞の採取を行う。
採取した細胞を染色し、顕微鏡でガン細胞があるかどうかを診断する。
現地スタッフの人材育成
採取した細胞の検体を作るエレーナ医師。1997年にスタートした甲状腺ガン検診プロジェクトも10年以上が経過し、現地スタッフの医療技術も向上している。
細胞診断
顕微鏡でガン細胞があるかどうかを調べる。
現地で診断を出すことで、自分が病気ではないかと不安を抱える患者の精神的な負担を軽減することができる。
顕微鏡で細胞を調べるアリーナ医師
ベラルーシでは医師に比べ、細胞診断を行う病理スタッフの数が圧倒的に少ない。
甲状腺ガンの早期発見・治療を実現するために、今後、細胞診断のできる病理スタッフの人材育成が大きな課題となる。
1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故から20年目を迎えた2006年4月、国連開発計画(UNDP)とベラルーシ国家チェルノブイリ委員会の共催により、国際会議「チェルノブイリ20年:汚染地域の復興と持続可能な発展のための戦略会議」がベラルーシで開催された。
同会議には、ベラルーシ、ロシア、ウクライナの政府代表、国際原子力機関(IAEA)や国際赤十字、国連などの国際機関の他、研究者、専門家、NGOなど、世界40ヶ国から1,600人が参加した。
NPO円卓会議にて活動報告
国際会議2日目、各国のNPO/NGO団体が集まり、それぞれの活動報告を行う円卓会議に出席。
ブレスト市における甲状腺ガン検診プロジェクトについて発表した。
チェルノブイリ原発、立入禁止ゾーン、地図から消えた村、etc
チェルノブイリ10kmゾーン検問所。
ゾーン内の立入には許可が必要となる。
事故を起こしたチェルノブイリ原発4号炉。
かつての原発労働者の町「プリピャチ」。
毎年4月26日になると、かつての住民たちがこの地を訪れる。
無人の町に佇む「プリピャチの観覧車」。
可動前に原発事故が起きたため、ここに人々が集うことはなかった。
市内の幼稚園に残されたアルバム。
このこどもたちは生きていればすでに20歳以上の成人になっているはず。
どこで、どのように暮らしているのだろうか。
園内のお昼寝ルームも事故当時のまま。
ベッドやおもちゃとともにガスマスクが混在した状態で、時だけが経過している。
チェルノブイリから20年以上が過ぎ、プリピャチ市内では来訪者による落書きも目立つようになってきた。
放射能汚染廃棄処理場のあるラッソハ村。
事故処理に使われた軍用トラックが並び、ここで解体されるのを待っている。
事故当時、上空から4号炉の消火作業にあたった軍用ヘリコプター。
平和利用の原発の事故処理に、各種の軍需兵器が使われた。
地図から消えた村、グバレビッチ。
チェルノブイリ原発事故後、住民は強制的に他の土地へ移住させられた。
グバレビッチ村で今も暮らす人々。
移住先での生活になじめず、故郷へ帰ってきた彼らは「サマショール(わがままな人)」と呼ばれている。
ナージャさんの家の井戸。
この井戸水ですべての炊事をまかなう。
原発事故後、20年以上が経過した人家。
こうした廃屋にも旧ソ連の各共和国やベラルーシ国内の非汚染地域からの移住者が住むようになった。
祖国で紛争が勃発したり、安定した職につくことができず、安住の地を求めてきたのである。
村を離れ、娘の住むゴメリ市内への移住を決めたニーナさん。
別れを惜しみ、慣れ親しんだ家の前で写真に納まる。
■NPO法人 チェルノブイリ医療支援ネットワーク
Chernobyl Medical Support Network
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