チェルノブイリ通信134号

大学生による福島訪問レポート

2023年10月13日~10月16日の福島訪問に参加した2名の大学生のレポートです。
訪問を通して知ったことや考えたこと、感じたことについて報告していただきました。

*大学生より提出していただいた報告書を修正等はせずにそのまま掲載しています。
*訪問中の写真は<こちら>で公開しています。

田中 静瑠(大学4年生)

 私は2021年、2022年と合わせて4回目の福島訪問でした。今回訪れた場所の中には今まで訪問したことのある場所もいくつかありましたが、行くたびに気づきや新しく知ることがあります。

   年々避難指示が解除され、新しく住宅や施設が建設されていく反面、そのすぐ隣で高い線量が計測されることも珍しくありません。そんな福島の現状を私の感じたことを通してお伝えします。

◇ あじさいの会

 あじさいの会は、小児甲状腺がん患者と家族、支援者による支援グループです。甲状腺がん患者が少しでもより良い治療を受け、より良い生活を送れるよう、お互いに情報共有しながら、支え合っています。(あじさいの会ホームページより一部引用)

 13日にあじさいの会の事務局長である千葉さんと、小児甲状腺がん患者のご家族の方のお話を伺いました。

● 311子ども甲状腺がん裁判

 あじさいの会では、小児甲状腺がん患者の方が原告となっている裁判を支援しています。この裁判では、原告の方たちは「なぜ私が甲状腺がんになったのか知りたい」という思いで戦っていらっしゃいます。口頭弁論は7回が終わり、原告の7名全員が意見陳述を行ったそうです。この裁判に参加したことで、原告の方同士や、応援してくれている人、弁護士の方との交流が増え、孤独感が軽くなったり、勇気づけられたという変化があったそうです。この思いを聞いて、甲状腺がんというのは、事故後ずっとこの不安感や孤独感を与え続けているものだと感じました。裁判の原告の方だけでなく、甲状腺がん患者の方の中には「差別を受けるのではないか」、「過剰診断と言われるのではないか」という思いや、治療による日常生活への影響などから孤独感を抱えたり周りの健康な同世代と同じように過ごせなかったりする方もいらっしゃるそうです。あじさいの会では、相談会や共に活動する機会を設けることでこのように孤立している患者家族をつなげる活動もしていらっしゃいます。あじさいの会の方とお話させていただくのは3回目でしたが、甲状腺がんというものがどれだけ生活や人生に暗い影を落とすのかということをお話のたびに深く感じます。

● 事故直後の情報不足

 事故直後の避難では、12日に原発から半径20キロ圏内に避難指示が出たそうですが、自分たちがいる場所が原発から何キロなのか分からず「とにかくもっと遠くへ」という思いだったそうです。また、避難所では避難してきた人々の線量を測っていたのですが、測っていた職員は防護服を着ている一方、避難者は着の身着のままで、その防備と無防備のギャップが大きかったと話しておられました。やはり事故直後は圧倒的な情報不足だったことが感じられるお話でした。

● 県・国・国連の対応

 事故発生から現在まで、県の検討委員会や県知事、国連のUNSCEARなどは、福島原発事故の甲状腺がんへの影響は小さいというような態度をとり続けており、メディアも研究論文の内容を「事故は小児甲状腺がんに影響していない」と意図的に解釈した記事を掲載しているとのことです。過剰診断、過剰診療の声から甲状腺検査の見直しが迫っており、あじさいの会さんは検診などを縮小しないよう要望活動を行っているそうです。

◇ おれたちの伝承館

 15日には「俺たちの伝承館」を見学しました。

 この伝承館は写真家の中筋純さんが館長となり、原発事故の教訓を伝える民間の伝承館です。データや資料が主な県の伝承館とは異なり、福島県出身の美術家の方などの絵画や彫刻などの作品が展示されています。

 甲状腺がん患者の方が服用した薬の袋を使用した作品や、現地に置いていくしかなく飢えて亡くなってしまった牛の紙のオブジェ、何年たっても肉眼で見られず、ストリートビューでしか見ることができない故郷の風景を思った詩、震災以前の豊かな自然にあふれた福島を回顧した絵画など、精神的な面での被災を知ることが出来ました。現地の方々の福島への思いが感じられ、データや資料を知ることがメインな県の伝承館とは対照的でした。

◇ 双葉町・浪江町

 俺たちの伝承館の見学後は、中筋さんに双葉町や浪江町を案内していただきました。私は福島訪問も4回目で、その中で双葉駅周辺などは何度も歩いたことがありました。しかし、自分たちだけで歩くだけではわからなかった、今回中筋さんに案内していただいて初めて知ることが出来たこともたくさんありました。

「おれたちの伝承館」館長であり写真家である中筋純(なかすじ じゅん)さん(左)

 特に印象的だったのは駅の駐輪場です。

 この駐輪場は駅の建物のすぐ隣にあり、近くを通ったことも何度もありましたが、この駐輪場に注目したことはありませんでしたが、今回、中筋さんから停まっている自転車は震災当時のままだと伺いました。実際よく見てみると、どれも砂埃をかぶっていてとても汚れていました。綺麗な駅舎と、人の往来が激減して時が止まったような駐輪場のギャップは大きかったです。また、双葉駅の周りの住宅街を歩いていると、建物の壁に人々を元気づけるような絵や文字などがたくさん書かれています。しかし、その道路を挟んだ反対側には崩れたままの住宅が残されていました。そのギャップも今回初めて教えていただいて気づきました。駅の横には公営の住宅がたくさん出来ており、住んでいる人もいらっしゃるようでしたが、日曜日でしたがそれでも周りの人通りはとても少なかったです。

(左)双葉駅隣の駐輪場
(右)“TOGETHER”のペイントと崩れたままの住宅

  大堀相馬焼の工房も案内していただきました。割れた窓ガラスも中の工芸品もそのまま放置されています。かつては工房が集まっていて盛り上がっていたというようなお話を聞きました。その建物の雨どいの下やコケ、道端の草はホットスポットで、線量計を近づけると数値が上がりました。震災後の県外避難などの影響で廃校となってしまった浪江小学校も教えていただきました。敷地はまっさらな更地となっていて一目では小学校があったとはわかりませんでしたが、校門だけ残してあり、そこから小学校があった面影が少しだけ感じられました。

大堀相馬焼の工房
震災当時のまま放置されています。

 その後、一面に太陽光パネルが設置された場所も教えていただきました。かつては田んぼだったそうですが、現在は帰還困難区域となっており、そこでつくられた電気は東京へ送電されるとのことです。福島原発で作られていた電気も東京へ送られていたことを思い出さざるを得ませんでした。

● 高い線量と「慣れ」

  中筋さんの案内で毎時1マイクロシーベルトを超えるような地域も車で通過しましたが、一緒に訪問しており今回が初訪問となった大学生がその数値を見て驚いていたのが印象的でした。私は4回目の訪問で、国道六号線などの高線量の地域にも何度も訪れており、一時的に通過するだけだからとすっかり慣れていました。しかし本来は決して安心して通れるような場所ではなく、ましてやそのような地域がすぐ隣にあるような場所に住みたいと考える人はいないと思います。福島に現在も住んでおられる方の中には「慣れてしまった」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、特に若い人や子供が安心して暮らせる状況ではないというのが現状だと感じました。

中筋さんが撮影された震災前の町の様子と比較しながら同じ場所を見て回りました。

 中筋さんに案内していただいた場所も、福島訪問の度に毎回通っている国道六号線からの景色も、見るたびに12年前にタイムスリップしてきたかのような気持ちになります。当時より下がったとはいえ長時間はここにいたくないと感じる線量、それにより立ち入ることが出来ず崩壊したままの建物、なにもかもそのままです。双葉駅周辺は訪問の度に新しい建物が建ち変化していますが、歩いていて見かける人の数は変わらず少ないです。見た目を整えて、新しい家が建ち、舗装された道路の部分だけ除染しても、草むらや雨がたまる部分といったホットスポットはどこに潜んでいるかわかりません。震災直後に政府が繰り返し言っていた「ただちに健康に影響はない」と言う言葉の通り、将来の「安心」も「安全」も保証されておらず、それにより本当の復興は全く進んでいないことが感じられます。

◇ 小高駅

 訪問二日目の14日には、小高駅前の通りで「おだか秋祭り」が行われていました。出店やイベントで小さな子供からご年配の方まで多くの方でにぎわっていました。普段は人通りは少なく、夜には電気のついていない家が多いため、この日の人出の多さに驚くとともに、多くの人が楽しそうに過ごしていて私までうれしく感じました。

 小高駅から歩いて行ける相馬小高神社も参拝しました。南相馬市では毎年「相馬野馬追(そうまのまおい)」という祭りが行われており、この相馬小高神社では「野馬懸(のまかけ)」という重要な神事が行われるそうです。

 訪れなければ知ることのなかった地域の文化を知ることが出来ることもこれまでの4回の福島訪問での意味の一つだと私は感じます。歴史や伝統を知ることで、少しずつ「何も知らない遠い町」ではなくなり、震災と事故によってどのような影響があり、現在まで歩んできたのか知りたい、そして周りの人に伝えたいと思える動機になると思います。

 今回で4回目の福島訪問でしたが、今回は特に中筋さんの案内や、俺たちの伝承館など、福島の現状をさらに詳しく知れたように思いました。

小高駅

岡 楓音(大学4年生)

はじめての福島研修(岡 楓音 大学4年)

 私は2023年10月はじめて福島研修に参加しました。南相馬市などの浜通りを中心に、様々な地域をまわり多くの場所を訪問しました。東日本大震災について、福島第一原子力発電所事故について知る機会はメディアを通して多々ありました。しかし、現在の復興状況や被害にあった人々の生活まで知る機会はほとんどありませんでした。特に福島の放射線被害に関しては、このチェルノブイリ医療支援ネットワークさんと出会うまでは、知る知らない以前にそのことについて考えることすらできていませんでした。これは私だけに限った話しではなく、多くの若者、多くの人々がそうであると思います。私は今回の福島研修を通して、ひとりでも多くの人が被災後の現状を知り、原子力発電所のあり方について考えることがとても大切だと感じました。そのためには少しでも知るきっかけを持って欲しいと思います。この記事レポートでは、私が福島研修で訪れた場所の中から特に印象に残っている場所をいくつか紹介したうえで、自身の感想や考えをまとめました。

(写真1)福島第二原子力発電所の写真です。
近くの漁港まで足を運びました。(富岡漁港)
 

◇ はじめて見た放射線測定器

  研修2日目から参加した私が、はじはじめて放射線測定器を目にしたのは、浪江駅でした。そこから街中を車で走っている際、駅や公共施設の敷地内にこの機械がいくつも設置されているのを目にしました。その時の私は、この機械がいったい何なのかや表示されている数字は高いのか低いのか、単位の読み方すらもわかりませんでした。車の中で放射線測定器について教えてもらい、「マイクロシーベルト」という単位や数値が表す放射線の線度の高さについて知識を得ることができました。(写真3)の小高駅での数値は0.044マイクロシーベルトは、人が住んでも良い数値だということも分かるようになりました。この測定器との出会いによって感じたことは、福島に住んでいる人にとってはこの機械の存在や数値に対する意識はいまだ日常であるということです。この測定器が福島県に設置されていることが、震災によって起きてしまった原発事故が起きたことをあらわしているようにも感じました。

(左:写真2)「おだか秋祭り」の様子です。
多くの人が外へ出て祭りを楽しんでいる姿が印象的でした。(南相馬地区小高区)
 (右:写真3)小高駅に設置されている放射線測定器。数値 ⇒ 0.044 μSv/h

◇ 「ふたばいんふぉ」で福島について知る

 はじめての福島県だった私は、メディアで耳にする、「いわき市」などの地域の名前は知っていても、その地理的な位置関係を全く知りませんでした。東日本大震災について、原発事故について学ぶにあたって、どの地域でどれくらいの被害があり、その位置関係はどうなっているのかを知ることはとても大切なことだと思いました。この「ふたばいんふぉ」では、双葉郡のインフォメーションを中心に、東日本大震災の被害について、視覚的に理解できる写真やデータなどが展示されていました。そのため、位置関係についてやどの地域でどのような被害があったのかを学ぶことができました。また、事故当時の風向きは北東と東に吹いていたようで、原発から30~40キロ離れている飯舘村で高い放射線量が測定されたということも知りました。

(写真4)位置情報の説明を受けている

◇ 中筋純さんのツアー(おれたちの伝承館)

 写真家の中筋純さんに原発事故について学ぶツアーとして、様々なスポットに連れて行ってもらいました。まず最初に、南相馬市の住宅地にある、中筋さんらが作り上げた手作りの美術館、「おれたちの伝承館」へ足を運びました。もともとは放射線の線度が高く、人が住むこともできなかったこの場所、建物の除染作業からスタートして、福島や原発事故を伝えるアート作品が展示される伝承館が完成したそうです。アートや漫画など、どの作品もその作品を作った人それぞれにある震災や原発事故の記憶が表されていました。それは、被害に遭われた方や福島県の人々の中にある言葉や想いでもあるのではないかと受け取りました。

(左:写真5)「おれたちの伝承館」の垂れ幕
(右:写真6)放射線被害を伝える漫画を読書中

◇ 中筋純さんのツアー(線度が未だ高い場所)

 次に、中筋さんの運転で、何度も開催されているこの福島研修ではまだ訪れたことのない、浪江町の帰還困難区域の近くのスポットを巡りました。例えば、「谷津田地区メガソーラー発電所」や写真(7)の「相馬焼窯元」などの付近を車で通りました。やはり帰還困難区域の付近はまだまだ線度が高い場所が多く、何度も放射線測定器は高い数値を出していました。このとき私は、数値の高さに驚き、怖さまで感じてしまいました。少しでもこの区域に近づくだけで、こんなにも線度が違うのかと。この研修の中、で最も放射線の問題を肌身で感じた瞬間でした。

(左:写真7)震災後そのままの窯元(大堀相馬焼)
(右:写真8)線度が高く出る水たまり

◇ 中筋純さんのツアー(除染問題)

 中筋さんとの浪江町の帰還困難区域付近のツアー中、他にも当時のままなかのような建物が多くありました。例えば、写真(9)は双葉駅にある震災当時のままの自転車置き場です。置いてある自転車は、ほこりで薄汚くなっていました。他にも道路を車で通っていると、馴染みのあるショップも発見しました。服屋だったそのショップも震災当時のまま、建物も中身の服もそのまま残っていました。この時私は、国が除染を行って、人が住めるように進めている地域が増えている一方で、このようにまだまだ何も手がつけられていない場所が残っているという現実とのギャップを感じました。除染にはとてもお金がかかるそうです。この福島県が本当の意味での復興を迎えるには、お金も時間もかかるのだと痛感しました。また、放射線を含んだ土問題もいまだ解決していないようです。私は車の中から大量につまれた土が入った袋の山を見ました。この土は放射線を含んでいる土で、これをどこに処分するのかが問題のようです。

(写真9)双葉駅にて、当時のまま残っている自転車置き場

◇ 請戸小学校

 最終日に震災遺構である請戸小学校に行きました。請戸小学校は震災当時のまま校舎内が残されています。あの日、津波がきて変わり果てた姿の校舎から、津波の恐ろしさを目の当たりにしました。ものすごい勢いで波が押し寄せてきたことが想像できてしまうのです。また、展示物の中に、印象に残っているものがあります。展示教室に貼られていた新聞です。福島県に原子力発電所ができると決まった時の、その企業誘致を地域活性化だというように取り上げていた記事でした。しかし、起きてしまった原発事故。この新聞が貼られていた意味を私たちは考えなければならないと、そう強く感じました。

(左:写真10)震災遺構浪江町立請戸小学校
(右:写真11)震災遺構浪江町立請戸小学校の校舎

◇ おわりに

 2023年8月、事故発生後の汚染水を処理した処理水を海に放出したというニュースが耳に入りました。このとき、東日本大震災による福島第一原子力発電所事故を思い出した人は多いと思います。私自身もこのニュースを見たことで、本当に安全なのか?海の生き物に影響はないのか?と考えることができ、今回の福島研修への参加により身が入りました。福島研修を通して、原発事故がもたらした福島の人々への影響を知り、事故後から現在に至るまでの人々の暮らしや歩みを知ることができました。まだまだ人が入ることができない地域がある一方で、政府の決めた線度を超えていないという理由で人が住むことを進めている地域があります。私はひとりでも多くの人にこの現状を知ってもらい、原子力発電のあり方について考えることが大切であると思います。私自身も、これからも関心を持ち続け、他人事と捉えないようにしたいです。


福島へ行ってきます!

2024年3月10日(日)~3月15日(金)まで春の福島訪問を行います。今回はCMN関係者2名、大学生2名の計4名が参加予定です。詳しい報告はチェルノブイリ通信135号に掲載予定ですのでお楽しみに!

X(旧Twitter)Instagramでも現地の様子を発信予定ですので、ぜひこちらもご覧ください。

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