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チェルノブイリ通信 No.50 (1)
2001年8月4日発行
・特集 「〜原発事故から15年〜チェルノブイリからの報告会」開催
報告・第9回ストーリン地区病院での検診から
走れ雪だるま号
チェルノブイリ支援運動・九州 第11回総会

原発事故から十五年
チェルノブイリからの報告会開催

 今年4月26日
 チェルノブイリ原発事故から、ちょうど15年が過ぎた。
 まだまだ支援を必要としている現地の声を伝え支援の輪を多くの人へ広げたい。
 チェルノブイリ支援運動・九州ではベラルーシからの四人のゲストを迎え 全国11ヶ所で報告会、学校交流会を開催した。
 各地会場では、小学生、中学生を含むのべ2000人を越える人びとが来場し、遠くベラルーシから来日した四人の話に、熱心に耳を傾けた。
 東京、京都、広島、串木野、阿久根、串間、大分県中津、北九州、唐津、福岡での報告会、また中津市立小楠小学校、北九州市立浅川中学校での交流会と、のべ17日間、11会場での日程を終え、4月30日、四人は無事ベラルーシへの帰途に着いた。
 15年という歳月は、長く遠く続いていく放射能汚染にしてみればごく短いものでしかない。
 「チェルノブイリの悲劇の中を生き続けるすべての人と同じように、私の時間も二つに引き裂かれてしまった。1986年4月26日以前とそのあとに。」
 作文集『わたしたちの涙で雪だるまが溶けた〜子どもたちのチェルノブイリ〜』に収められたこの言葉のように、四人の中には、それぞれのチェルノブイリがあり、今を生きている。8000キロを越え届けられた生の声を聞いて、改めて「チェルノブイリはまだ終わっていない」ことを感じた。多くの人生を引き裂き、いくつもの人々の命を奪ってきたチェルノブイリ原発事故。今もなお困難な状況にある人びとの力となれるよう、これからも会員のみなさんと共に、「チェルノブイリ」を支えて行きたいと願う。
 また、忙しい中、快く来日を引き受け、チェルノブイリを伝えるために来て下さった四人のゲストたち、会場へお越し下さったみなさん、そして今回の報告会開催をさまざまな形で支えて下さった多くのみなさんに、心より感謝の気持ちを申し上げたい。本当にありがとうございました。 (事務局 寺嶋)

ナターシャ・コワレワさん(工房「のぞみ21」)

 こんにちは。親愛なる友人のみなさん。
 ベラルーシという小さい国は、チェルノブイリ原発事故によって大変大きな被害を受けました。私たちの子どもたちが、放射能汚染とその影響で病気になって死ぬ、そういう現実が今ベラルーシにはあります。
 皆さんの国にも、汚染地で生活せざるを得なかった貴重な経験がありますね。日本のそうした専門家のみなさんの支援によって、ベラルーシで起きているいろいろな悪性腫瘍の病気の治療や、医薬品などによる人的支援をして頂いています。医療機器、医薬品によって支援し、腫瘍や血液系の病気の早期発見のための診療を行っていて、それにより多くの人の命が救われています。私たちはベラルーシ、そしてチェルノブイリ原発事故で苦しむ家族を代表して、日本の人びとそしてここにいらっしゃる皆さんに感謝の気持ちを伝えたいと思います。
 病気の子どもたちが孤立するという問題に1986年、私自身が直面しました。息子のオレグは11歳でした。彼は白血病にかかってしまいました。ベラルーシにはそうした家族がたくさんいます。そういう病気になること自体も不幸なのですが、病気になった子どもはいろいろな社会差別を受けています。病気に対する無知から、息子の友達の家族は、オレグの病気のことを知ると彼を家に入れなくなりました。子どもが大人になっていく時に、家族はもちろん、友達、親類など多くの人との交流が必要になってきます。差別と誤解がオレグから友達を奪ってしまったのです。
 そうした、悪性腫瘍などの病気にかかっている人が社会的な差別を受けるのを目の当たりにした中で、彼らどうしの結びつきの場が必要なのではないかという考えが浮かんできました。そうした病気になると人間は自分にどういう注意が向けられているかということに非常に敏感になります。そして限られた状況の中でいろいろなことを努力したい、学びたいという意見が患者や障害を持つ人びとの中から出てきました。こうした経験をするうちに、彼らの意見を取り入れて作業所などを作れたらという考えが浮かんできました。
 障害児のための工房を思いついたのは1994年のことでした。私が工房の計画を家族のみんなに話すと、喜んでその計画に賛成しました。しかし、考えは浮かんだもののどこからも助けはありません。内装から修理から、すべて自分たちの力でなんとかしなければなりませんでした。第一に工房を作る場所、そしてどう障害をもつ若者たちの能力を引き出すか、教えるか、どのように工房を運営していけば良いのか、何も分かりませんでした。やっとのことで作業所を始めたとき、5つの家族が障害を持った子どもたちを連れてきました。そしてようやく交流の場、働くことを学ぶ場として作業所が出発しました。
 私たちの工房は始まってから6年たちますが、多くの若者が在籍しました。この6年間で私がとても誇りに思うのは、多くの障害者が将来のために作業所へ仕事を覚えに来たことです。刺繍を覚えたり、絵を覚えたり、木工技術を覚えたりすることで、ある者は専門の学校へ進んだり、ある者は職人として工場へ就職するという道を見つけました。彼らが自分たちで生き甲斐を見つけ、彼らが自分の手に技術をつけて、そして多くの人々と交流をすることができるようになったのです。  現在私たちの工房には30人が在籍しています。年齢は18歳から30歳までです。病気についてさまざまで、分裂症の人から甲状腺ガンまでいろいろな人たちがいます。それぞれの労働時間は、それぞれの障害や医者の指示などに応じて4時間から8時間の間で決めています。  工房は彼らにとって唯一の交流の場所です。昨日見た映画、新調した服、家庭の出来事などの話から、毎日の朝が始まります。つい話に花が咲いて、朝彼らが集まっても仕事を始める時間が遅れたりすることもあります。
 医学的にもいろいろな病気の人がいるため、ひと月の生産量はそれぞれ違います。ある人はひと月に1個か2個の製品しかできない。ある人はひと月に10個、12個も作る、といったように非常にバラバラです。したがって給料も出来高によって払われることになっています。今一番問題なのは、彼らの仕事にいかに賃金を払うかということです。それはどのくらい賃金を払うかという意味でも問題ですが、それよりも彼らの仕事またその努力に対して報酬を払うことが、経済的に非常に難しいということの方が大きな問題です。
 障害を持っているため、生産量を大きくのばすことはできません。それに応じての仕事なので、賃金は高いものではありません。私たちの工房はほかから援助を受けておらず、自分たちで経営し、自分たちで給料を支払うというものです。私たちがいつも気にかけているのは、工房を援助してくれる人を探すことです。スポンサーを探してもなかなか見つかりません。と言うのも援助を少しでも多く受けることで、給料を上げ、それぞれ障害を持つ若者たちが努力し、質のいい仕事をする励みとなればと思うからです。工房では毎日昼食を出しています。たいしたものではなく、サンドイッチなどですが、なにがしかのお金の節約にはなっています。
 仕事の話ばかりしましたが、けっして一日中、彼らに仕事をしなさいと言っているわけではありません。私たちは楽しいときも過ごします。6年たち、もう伝統的な習慣になりましたが、それぞれの誕生日にはみんなでお祝いをします。ケーキを焼いたり、それを一緒に食べる場所として作業所を提供したりします。私たちの国にはいろいろな祝日、祭日があります。例えば一番大きなものは新年を祝う日、クリスマス、そして復活祭などで、そういった時にはケーキを焼いたりお互いにプレゼントを交換したり、ダンスパーティなども作業所の中で開きます。夏には長い休暇があります。この時期、お金があれば、工房のみんなで旅行に出かけたりもしたいのですが、そうもいかないので、それぞれ家族などで出かけるなどしています。
 チェルノブイリ事故のいろいろな情報が世界のすみずみに知られるようになりました。そういう中から皆さんとの交流の場も持てるようになってきました。しかし現在でも汚染地域には多くの住民が住んでいます。そして多くの専門家は、「放射能汚染は終わらない。放射能というのは体内に蓄積していって、これからもっといろいろな病気が出てくる」と言います。
 しかし残念ながら、15年もたつと怖さも人間の中からだんだんと薄れていきます。現地の人たちは汚染されたところから他のところへ行くことができない。今まで通り、そこでできたものを食べ、そこで生活している。しかし、それを続けていれば、いろんな放射能が体内に蓄積し続けてしまうということが、一番心配していることです。
 みなさんご存知のように、経済状態も非常に悪い状況です。それに加えて、チェルノブイリ原発事故による放射能被害はとてつもないもので、ベラルーシ国の自助努力だけでは難しく、外国からの支援なしに一人で乗り越えられるものではないと思っています。特に、子どもたちをどうするかということは大きな問題だと思います。現在のところ、そうした人たちに対するいろいろな支援は、日本からなされている支援や他の国から行われている支援などしかなく、この場を借りて、われわれに支援をして頂いていることにもう一度日本の皆様に感謝の念を捧げたいと思います。
 私たちの医療関係の支援を行っているチェルノブイリ支援運動・九州に対し、感謝を申し上げます。またチェルノブイリ支援運動・九州からの私たちの工房への支援に対しても、感謝したいと思います。
 また最後に、今日忙しい中この会場へ来て話を聞いて下さったみなさんにお礼を申し上げます。

ステファン・コワレフさん(工房「のぞみ21」)

 こんにちは。親愛なる友人の皆さん。
 私は工房で、子どもたちへ主に木工を教えています。例えば会場の後ろに並んでいるマトリョーシカ(ロシアの入れ子式こけし)や木の額縁など、そういったものを教えています。それともう一つは子どもたちの送り迎えを担当しています。また夏には、子どもたちを川や森に散歩に連れていったりもします。
私たちのところの作品というのは、つたないものではありますが、そこには若者たちが努力して働いたものが詰まっていると私は思っています。確かにこういう工房を経営することは、非常に簡単なものではないと思います。だけど彼らが努力して作る様子、また作った製品を見ていると、非常に価値のあるものではないかと思っています。
 また、工房で働く人たちの中で5組が結婚しました。このことは私たちの工房が彼らの交流の場として役立ったという、非常におめでたいことだと思っています。
 ベラルーシは非常に自然に恵まれた国です。森が多く、川もきれいでコウノトリも飛んできます。そうした美しい国を神様がわれわれに与えてくれました。非常に残念ですが、そういう神様がくれた自然を、われわれ人間が壊してしまいました。それがチェルノブイリ原発事故です。一番大事な友人、そして自然、森をその事故によってわれわれは失ってしまいました。そうしたわれわれの国へのみなさんの支援に感謝します。
 ここ一週間ほど日本に滞在し、たくさんのすばらしい日本の方々に出会い、そしてまたたくさんのすばらしい自然を見ることができました。どうもありがとうございました。

エレーナ・ノビコワさん(工房「のぞみ21」スタッフ、刺繍指導担当)

 こんにちは。
私はエレーナ・ノビコワと言います。1977年5月に生まれました。1984年に小学校に入学し、卒業後技術学校で刺繍を学びました。1986年のチェルノブイリ原発事故当時、他の子どもたちもそうでしたが、子どもたちは全員モスクワ郊外のイワノボに避難させられました。それから当分の間、家族たちとクリミヤ半島へ行って夏を過ごしたり、何もなかったかのように過ごしました。学校で甲状腺の検診があったのですが、その時には異常を指摘されませんでした。
 ところが1994年のことです。私の家族の前に不幸が襲ってきました。
 私の首の左側にリンパ節肥大が見つかったのです。病院に診察に行くと、これは悪性腫瘍の兆候だと説明されました。そのあとで甲状腺切除手術を受けました。その3ヶ月後、私は他の子どもたちと一緒にイタリアに行き放射性ヨードによる治療を受けました。イタリアにはその後二度治療に行きましたが、そうした海外での治療は非常に費用がかかるため現在では中止になっています。しかし現在は、外国からの人道的支援のおかげで、ゴメリにも悪性腫瘍診療所の病棟がつくられ、放射性ヨードによる治療を受けることができます。そのため私も2年間ゴメリでこの治療を受けています。
 甲状腺を全部摘出したので、私は甲状腺ホルモンを補う治療法を受け、現在、毎日チロキシンという錠剤を飲んでいます。体の調子を少しでも整えるためで、このような治療により私は働くことができるのです。
 私はナターシャさんに誘われ「のぞみ21」で働くようになりました。彼女は私に刺繍の職人として働くよう提案してくれました。今、彼女と一緒にテーブルクロス、ナプキンやエプロンなどのデザインやモチーフを考えています。またそのデザインにはできるだけベラルーシの伝統的な模様を活かすように心がけています。
 刺繍の仕事は非常に細かく、忍耐力と注意力のいる仕事です。工房の女の子たちに教えるには多くの努力と注意が必要です。ナターシャさんは時間を作っては彼女たちをサポートしたりアドバイスしたりしてくれます。彼女は彼らがうまくいけば必ずほめてくれます。しかし、仕事上の注意深さも同時に教えます。現在、刺繍の仕事は基本的には私が担当しています。
 私たちの工房は、先ほど話があったように、われわれ患者や障害を持つ人びとに、交流と仕事の場を与えてくれました。そしてその交流の場で、ゴメリだけではなく外国の友人とも交流できるようになりました。私たちは大きなあたたかい家族のように生活しています。いろんな問題も喜びも分かち合い、工房こそが私たちを一緒にしているのです。ありがとうございました。

リュドミラ・ウクラインカさん
(ミンスク教育大学院医療心理研究室、女性と子どもセンターカウンセリング担当)

 ミナサンコンニチハ。(日本語で)
 このすばらしい国でまた皆さんにお会いする事ができ、私はとても幸せです。一度目の日本訪問は1999年でした。その時、私たちを支え、支援をしてくれるみなさんがそばにいることを知り、非常に感銘を受けながら日本での滞在期間を過ごしました。
 事故が起きた1986年、私は10歳でした。国のちょうど中心部にある首都ミンスクに住んでいました。その年の5月と6月の夏休みに、モギリョフ市にあるおばあちゃんのところに行きました。モギリョフは、国の南東部にあり、ミンスクよりもチェルノブイリに近い町です。
 事故によってベラルーシ放射能物質の70%が降り注ぎ、その結果、私たちの国の三分の一の地域が汚染地になりました。ベラルーシには原発がないにもかかわらず、原発を持っているウクライナやロシアより遙かに広い汚染地域を持つことになりました。
 事故が起きたあとの十日間、私たちは事故のことは一切知りませんでした。旧ソ連ではこうした深刻な問題が起きたことは伏せられていて、私たちにそうした事実が知らされることはありませんでした。また5月1日は、ご存知のようにメーデーの日で、ベラルーシでは非常に大きな祝日になっています。その日はとても天気が良く、多くの人がメーデーのデモなどに参加していました。
 事故から約十日ほどたってから、イギリスやドイツなどヨーロッパのラジオ放送で、専門家が大気中の放射能のレベルが上がっていると発表されました。しかし残念ながら、放射能濃度のレベルが上がっているということの危険性や、どのような対策を取れば良いのかということを、私たちはまったく知りませんでした。放射能は目に見えず、においもありません。どう防御するかということを誰も知らず、何の防御策を取ることもなくいつもの生活を続けていました。
 人びとがこう噂していたのを覚えています。「五年後にはベラルーシはもう存在しないだろう」と。
 しかし五年後、まだ私は生きていました。
 15歳の時、母に連れられて行った病院で、私の甲状腺に結節が見つかりました。残念なことにベラルーシには、順序よく総合的に診断するというシステムがないため、私は非常に大まかな診断を受けました。二ヶ月後の1992年2月、私は甲状腺摘出手術を受けました。ところが後の組織検査の結果、その甲状腺腫瘍は悪性のガンではなく、良性のものだったことが分かりました。結論的には手術はしなくても良かったのです。事故以前、子どもの甲状腺ガンというのは非常にまれなケースだったため、あまり診断・治療の経験がありませんでした。現在では、チェルノブイリ支援運動・九州の専門家や人びとの支援により、早期発見ができるようになり、さらにガンかどうかも手術前に判断できるようになってきています。私は二度とこのようなことが起きないよう願っています。
 この出来事は私の人生の中で非常に重要なものになり、私の将来の仕事、研究のテーマを決定づけることになりました。一九九三年、私は高校を卒業したあと、ミンスク教育大学で生物学・臨床心理学を専攻しました。大学四年生の時、国立放射線治療センターにおいて教育実習をしました。そこで、私と同じように甲状腺ガンの手術を受けた子どもたちのグループ心理療法にたずさわりました。
 手術を受ける五日前、もし自分の命があと五日間しかないとすると、私は何をするべきかと考えました。そして、「私と同じ境遇にいる人たちを、どんな形でもいいから助けたい、手を差しのべたい」と思いました。
 残念ながら私たちの国には、特に子どもたちに対し、手術を受ける前や手術後の精神的ケアなどをする専門家はほとんどいません。私は自分自身が手術を経験しており、多少の心理学、精神学の知識もある。同じ境遇にある人を助けるには、自分が一番適しているのではないかと思い、そうした道を選ぶ決意を固めました。
 大学を卒業して大学院へ進み、そのかたわら様々な外傷などによる精神的な障害を持つ人たちの臨床心療士として働いています。大人でさえ、ガンがあるという診断によって、将来や孤独に対する不安、自信喪失などを招き、病気だけでなくそうしたものと戦わなければなりません。そうした人たちに対し、生きる価値、死とは何かなどの彼らが直面する問題についてのコンサルトがいかに必要なのということを知りました。
 ご存知のように、今年の4月26日で15回目のチェルノブイリ事故の日を迎えます。しかし、放射能というのはまだまだベラルーシの土地にあり、人々を被曝させています。国連の発表によると、チェルノブイリは二十世紀最大の環境的大惨事だと言われています。地表に落ちた放射能は何千年にもわたって残ると言われており、そうした環境の中、住民たちは将来に不安を抱えつつ現在も暮らしているのです。
 こうした経験から私は二つの結論を得ました。まず教訓として、人々に対して事故の情報や、すぐにヨード剤を服用するなど、放射能に対してどう対処すればいいかなどの情報を流すことが大切だと思いました。人びとが安全策を知っていれば、これほど多くの子どもたちが病気に苦しむことはなかったかもしれません。それから二つ目に、世界中に多くの優しい人々がいて私たちを助けてくれるということです。私たちに希望があり、自分たちだけの力でこの問題を解決せずにすむのは、世界中に私たちを助けてくれる人びとがいるからです。広島・長崎での原爆投下の際、その後の放射能に対して、当時のソ連邦は医薬品や医療機器などを送り援助をしたと聞きました。私たちの国は非常に困難な状況にあるため、みなさんからの支援に対しとても感謝しています。
 私は事故、そして手術を経験して、人が生きるということの価値を改めて感じるようになりました。それと同時に、事故後のいろいろな経験を通して、私たちのまわりには多くの優しい人びとがいることも知りました。困難な状況に陥っても、自分は決して一人ではない、自分を支えてくれる人たちがまわりにいると知ることが、生きていく上で非常に大切なことだと思いました。
 1997年、幸運にもミンスクで「チェルノブイリ支援運動・九州」の矢野さん、通訳の山田さんたちと出会いました。彼らは私に、広島や長崎の話も聞かせてくれました。その後、2年前に日本への招待を受け、日本に私たちのことを心配し、支援をしてくれている方々が多くいることを知りました。
 私たちは一つの星に住んでいます。
 もう一度みなさまがたの支援と、本日ここに来て下さったことに対し感謝の気持ちを申し上げたいと思います。
 アリガトウゴザイマシタ。

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