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チェルノブイリ通信 No.50 (3)
2001年8月4日発行
特集 「〜原発事故から15年〜チェルノブイリからの報告会」開催
報告・第9回ストーリン地区病院での検診から
・走れ雪だるま号
チェルノブイリ支援運動・九州 第11回総会

走れ! 「雪だるま号」

 チェルノブイリ支援運動・九州による検診だけでなく、日本のチェルノブイリ支援団体が現地で活動する際にも貴重な移動手段として利用されている「雪だるま号」。その「雪だるま号」の働きを通して、様々団体の活動の様子を伝えるこのシリーズ。今回は保養里親運動に取り組むNPO「チェルノブイリへのかけはし」と、カタログハウスが発行する「通販生活」を通して幅広い支援を行っているチェルノブイリの母子支援募金の事務局、神尾京子さんからの報告を紹介する。

里親による保養運動への取り組み
「チェルノブイリのかけはし」からの報告

 ベラルーシを訪れるのは、今度で14回目でしたが、雪だるま号のおかげでこんなに助かったことはありませんでした。たかが、車一台と思われるでしょうが、これを現地で無事に維持することは、相当の信頼関係がなければできないことです。

里親保養活動の取り組み
 92年にはじまった保養運動は、汚染地の子どもや被ばくした子どもたちを、一ヵ月、ホームステイ形式で受け入れ、体力の回復をはかるというのが目的です。個性的なベラルーシの子どもたちとは、毎日が格闘でした。とにかく、食べない。子どもたちは胃腸障害が重く、食が細くて驚かされるのですが、一度にほんの少しずつしか食べられないのです。それでも、里親さんたちはなんとか体力を回復させようと、あれこれ作っても、食べるのはキュウリとトマトばかり。そして、バナナ。
 「なんでこんなに好ききらいが多いの?保養に来ているのに。きっと偉い人の子どもが来てるんじゃない?」という人もいれば、「子どもたちはとってもいい子たち。日本の昔の子のようにのびのび育っている」と、里親さんの評価もみごとに半分に別れ、チェルノブイリのことも、ベラルーシの人々のこともまったくわかっていないことに気づかされたのでした。

現地を訪れて分かったこと
 94年、今度はベラルーシから保養に来た子どもたちの家を全部訪ねることになりました。
 当時は、車の確保も本当にむずかしく、ガソリンも田舎に入ると手に入らないので、途中、コルホーズにお願いして分けてもらっての移動でした。
 日本に来た子どもたちの家を一軒ずつ約130軒ほどを訪問。どこの家も、判でおしたように、コルホーズにかかわり、みな、家庭菜園で自給自足の生活を送っています。
 「わがまま」と言われた子どもほど、貧しく、片親の上に子だくさんなど、しつけなどをしてやれないような家庭の子どもだったのです。イモしか食べたことのないような子ほど好ききらいも激しく、それを知らずに申し訳ないことをしたと、涙がこぼれそうになりました。
 以来、私たちは子どもたちを丸ごと無条件で愛す、決して日本人の価値観で彼らを評価したくないと思っています。
 チェルノブイリ原発事故後、共産党幹部などは汚染地から一番先に出ていったと聞いています。そして、汚染地に残っているのは貧しい農民層で、現在も移住の可能性さえ見えません。
 今回の旅に通訳でついてきてくれたジーマも、11才の時に保養で来日。帰国1週間前に「身体にいいものはいらないから、コーラとアイスを毎日、死ぬほど食べさせてほしい。自分の身体には放射能がいっぱいたまっていて、いつ死ぬかわからない。」と談判してきたわがままものでした。
 彼の父は、チェルノブイリの消火作業に動員され、その数年後に後遺症で死亡。また、当時5才と3才の子どもを抱えていたお母さんも汚染地から機械を運び出す作業に従事し、結局、残された家族も体内に日本人の30倍もの放射能が蓄積されてしまったのです。
 けれども、「ジーマは、保養から帰って、ごはんが食べられるようになったわ」というお母さんの言葉こそ、里親さんにとって最高の宝物となったのはいうまでもありません。
 彼は、いまは子どもたちの付添いや通訳として成長してくれ逆に私たちが世話になることも多くなってきました。
 この10年でやってくる子どもたちの身体は頭一つ小さくなっていますし、最初に保養した子どもたちが徴兵に行きはじめていることも、私たちの胸をしめつけています。
 どうか、みなさま、チェルノブイリの子どもたちをこれからも、末永くお守り下さいますようお願い申し上げます。
(チェルノブイリのかけはし、代表、佐藤啓子、問合せ 011-511-3680 )

現地での支援の様子を確認
「チェルノブイリの母子支援募金・通販生活事務局」からの報告

 出発前日、モーズリの菅谷昭先生からのファックス。「こちらはとても暖かいです。コートは不要」
 同じく前日、ミンスクに滞在中の細胞検査士・松浦千秋さんから入ったファックス。「いまは暖かいのですが、研究所のスタッフたちは来週から寒くなると言っています。コートとブーツをお忘れなく」
 今年4月11日から20日まで、5年ぶりのベラルーシ訪問。今回は『通販生活』読者のカンパがどのように役立てられているのか、確認するのが目的です。
 久しぶりに再会する知人にお土産を持っていきたい、ベラルーシに長期滞在している菅谷先生に日本食を持っていきたい、そこへ預かりものが加わって、スーツケースはパンパンです。さて、コート。しばし悩んだすえに、毛糸のズボンとセーターを取り出して、真っ赤なコートを入れました。
 東京はぽかぽか陽気で、シャツ一枚でも暑いくらいです。コートはムダかも…と思いながら降り立ったミンスク空港。出迎えてくださった通訳の小川良子さんが、長いコートを着て手を振っています。「昨日から急に寒くなったんです」
 イースターのこの頃は、毎年寒くなるんだそうです。
 空港を出ると雪だるま号が待っていてくれました。運転手はジーマさん。30歳の好青年です。まっすぐモーズリへ。外はどんなに寒くても、雪だるまの中は暖かくて快適です。  約4時間のドライブを終えてモーズリに到着。菅谷昭先生のお部屋を訪ねました。先生はミンスクの国立甲状腺ガンセンターで三年半、ゴメリ州立ガンセンターで一年半、医療支援を行ない、6月に帰国されるまでの半年をここで過ごされています。

 翌日、ゴメリ州立ガンセンターを見学しました。センターには先生を慕うドクターがたくさんいらっしゃいます。「菅谷先生からは多くのことを学んだ。できれば、病院に帰ってきてほしい(笑)」
 まんざら冗談でもなさそうです。菅谷先生が医療支援に入ってから、この病院でも甲状腺手術が行なわれるようになりました。それまではミンスクまで出かけて手術を受けなければならなかったわけですから、ゴメリ周辺に暮らす甲状腺疾患の方の負担がものすごく軽減されているのです。

 14日と15日は、住民を対象にした菅谷先生の甲状腺検診を見学。イースターもかかわらず、二日間で200人以上が集まりました。検診で異常が発見されると、昨日訪問したゴメリの病院へ紹介状を書きます。ゴメリの病院と連携ができているので、スムーズに精密検査が受けられます。

 16日、ミンスクに移動。
 腫瘍放射線医学研究所では、一年に一度、ベラルーシの細胞検査技師のために研修講座を開催しています。「診断には正しい検査が必要。そのためには、人材の育成が大切だし、ベラルーシ国内の診断基準を標準化・国際化する必要がある」この講座は、松浦さんの熱心な後押しで開講されるようになったのです。松浦さんと、松浦さんに誘われて参加した細胞検査士の今井律子さんが日本の検査システムについて講義しました。受講者からは「日本の検査技師の労働時間」「検査技師に与えられている権限」等の質問が出ました。
 寒い寒いベラルーシの旅を楽しく快適に過ごせたのは、雪だるま号のおかげです。「通販生活」の読者からのカンパが、チェルノブイリ被災地で地道に、でも確実に役立てられていることを肌で感じました。ありがとうございました。
(チェルノブイリの母子支援基金・通販生活事務局 神尾京子 問合せ03−5365−2296)

雪だるま号のご利用をご希望の方は・・・

 ベラルーシでチェルノブイリ支援活動を行う際、国内の移動手段として雪だるま号の使用をご希望される方は、チェルノブイリ支援運動・九州の事務局まで、ご連絡ください。現地での使用目的、スケジュールを確認した後、ミンスク赤十字に雪だるま号の使用を依頼します。

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