医師になった高橋恵理佳さんからのメッセージ
ベラルーシでの医療支援活動から学んだこと
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ベラルーシの人々からの花束を受け取る高橋さん(左端) |
初めてチェルノブイリ被災者支援活動に参加してから早3年以上の月日が経過しました。
チェルノブイリ原発事故当時はまだ5歳だった私は、事故から20年という意味深いこの年に医大を卒業し医師となりました。
私が医師になったのも、この支援活動を続けているのも、根底にある理由は同じです。それは傷付き苦しみを抱えている人の傍にいることを私という人間の一生にしようと決めたことにあります。
昔も今も、些細な虚栄心や欲望により幸福感を歪めた私達は、自己満足のために他人を傷付けながら毎日競り合って先を急いでいるように見えます。その先には楽園が待っているという迷信をいつのまにか真実と思い込み、我先にそこに辿り着かねばと脇目も振らずに進んでいるのではないでしょうか。だから傍らにうずくまっている人がいても立ち止まって目を向けようともしません。
しかし急いで向かった先に待っていると信じている楽園など蜃気楼に過ぎないのではないでしょうか。大切なものを捨て去ってまでそこに一番乗りで辿り着いても、再び目を開けた時には消えてしまっている世界で心から笑うことができるのでしょうか。その大切なものこそ、弱きを労わり人を思いやる気持ちや苦しみの中にある人に手を差し伸べる人間らしい優しさです。
皆心のどこかでは気付いていると思うのですが、人間としての本当の幸せはそこにある気がします。せっかく尊い生命を授かったのだから、私は人より先になど進めなくなろうとこういったものを人生の中心に置き、ゆっくりと、しかし人間らしい生き方をしたいと思います。
ところが医大に通い始めて3年間、目の前の試験やレポートに追われる毎日の中で私は先に進むために必死でした。医師になりたいという夢を叶えるためとはいえ、いつのまにか私も迷信に縛られていたのです。決して医大の特異な環境のせいではありません。私がまだその程度の意志の弱い人間だったのだと思います。
このような生き方をするために医師になろうと決めたのではなかったと思い出した4年目、正直なところこのまま医大に残るべきかと迷いました。ここにいたらまた自分の信念以外のものに負けて流されてしまう気がしました。一方で、信念を貫くのは大変なことではあるけれど決して不可能なことではなく、この場所でも自分らしい生き方はいくらでもできるという希望もありました。清水先生からチェルノブイリ被災者支援のお話を聞いたのは正にそのような折でした。
非科学的な言い方をするべき立場ではないことは承知の上ですが、あれは運命だったと思います。支援活動に参加することで、医師こそ私らしい生き方ができる道だと自信を持つことができました。それ以来私は自分の理想の医師を目指して勉強を続け、今に至ります。
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検診に取り組む高橋さん |
お互い思いやりを持って自分だけでなく皆の幸せを願える場所こそ楽園です。他人を傷付けたら自分も傷付きます。誰か一人が泣いていたら、他の誰一人として幸せではないはずなのです。誰のことも独りで泣かせない温かく幸せな世界になってほしいと思います。そのための一歩を私は踏み出してみました。と言っても私もまだまだ小さな人間です。今は医師としての毎日の生活とチェルノブイリ被災者への支援という限られた範囲だけですが、いつか世界中で私の思いを実践できたら、その時私の夢が正に叶うでしょう。
「あなたが笑っていたら私も嬉しい。あなたが泣いていたら私も悲しい。」
これが共に生きるということです。私は医師として、一人の人間として、これからの人生を苦しみの中にある人々と共に生きていきます。チェルノブイリ被災者も、彼らを支える医療従事者も決して独りにはしません。
幸いにも私は仲間に恵まれています。清水先生を始め、日本医科大学チェルノブイリ被災者支援会には同じ信念の医療従事者が続々と集まっています。チェルノブイリ支援運動・九州の皆様、そしてその支援者の皆様も同じ気持ちでいて下さることと信じております。
私らしく生きる機会を与えて下さった皆様に心から感謝申し上げます。
(チェルノブイリ通信号外より転載・一部修正)
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