報告:食の安全・安心に関するフォーラム
持続可能な環境・循環・共生の社会をつくる
‐ 里山の価値を伝え、都市と農村の新しい関係 -
11月19日(日)堅粕公民館にて福島県二本松市で農業に従事していらっしゃる菅野正寿(すげの せいじゅ)さんを講師にお招きし、食の安全・安心に関するフォーラムを開催しました。講演の内容を抜粋してご報告いたします。
*この事業は令和5年度福岡市NPO活動推進補助金を活用して開催しました。
私が住んでいるのはかつて東和町と呼ばれた6000人ほどの小さな町で、2005年に二本松市と合併しました。養蚕が盛んであらゆる土手に桑畑があり、小さいころから学校へ行く前に蚕の世話をしていました。また、牛などを飼育する畜産も盛んで、これが福島の山間部の農業でした。ところが1980年代ごろから繭などの値段が暴落し、桑畑が荒れ少数の牛を飼っていた酪農家が廃業していきました。当時の東北では冬は出稼ぎに出るのが当たり前の生活で、青年団に所属していた私はこのような状況を何とかしたいと思っていました。1986年には縁があってコープ福島と産直を開始し、消費者と顔の見える関係が作れるのではないだろうかという自信がついてきました。
1990年代には東京から産業廃棄物が東北に持ち込まれるようになりましたが、10年かけて持ち込みを停止させました。この頃からきらびやかな東京のゴミを東北などの過疎地に押し付けるという構造があったと私は思っています。
2005年に東和町は5万5千人の大きな市である二本松市と合併することになりました。大きな市町村との合併は過疎と過密を加速させると私は考えています。そこで、中山間部の過疎化を防がなければならないという思いからNPOを2005年に立ち上げ、地域資源循環の仕組みづくりを目指しました。
荒れ放題の桑畑をどうにかしたいということで、桑の葉の成分を詳しく調べたところ血糖値や中性脂肪を抑える働きがあることが分かりました。そこで桑の葉をパウダー状にしてお菓子などに活用して売り出すなどし、桑の葉関連の売り上げが3000万円、道の駅全体の売り上げが2億円に達したときに震災と原発事故が起きました。
私の住んでいる場所は原発から50Kmほどの場所でしたが、たまたま風が北西に流れたので避難せずに済みました。ですがちょっとでも風向きが違っていれば私も避難しなければならなかったかもしれません。その時の風向きや天候によって状況は大きく変わる可能性があります。原発の近くだけが避難対象になるわけではないのです。
二本松市には浪江町から着の身着のままの人が3000人避難してきました。3月と言ってもまだ寒く、洋服や布団など日用品の支援も必要で放射能のことを気にする余裕はありませんでした。津波の被害で亡くなった方は福島では約1650人ですが、避難を繰り返すことによるストレスや持病の悪化などで亡くなった方は2400人以上とも言われていて津波の被害よりも圧倒的に多くなっています。
事故から1ヵ月たった頃、二本松市では種をまいて大丈夫だと公表されました。でも本当に種をまいて農業ができるのだろうかという不安は大きく、農家で集まって会議を行いました。農地の空間線量を大学と一緒に測定したところ、山際の放射線量は高く、耕した田畑は低くなっていました。おそらく樹木に放射性物質が降り注いでいて、落ち葉などで循環してずっと留まっているのだと思います。福島のキノコはいまだに食べることはできません。また私が住んでいる所ではワラビやゼンマイ、タケノコの出荷も未だに停止しています。
農家が米を作らなくなった田んぼにはセイタカアワダチソウが生え、カエルもトンボもいなくなってしまいました。農地の除染では生えてきたセイタカアワダチソウを刈り取り、表面の土をはぎとって黒いフレコンバックに詰めます。このフレコンバックは大熊町や双葉町にある中間貯蔵施設へ運び込まれましたが、この先どうするのかははっきりとは決まっておらず今後の課題となっています。
収穫した米の全数検査は6年続けました。大学と一緒に行った放射能の実態調査では事故当時放射性物質は土の表面5cmのところにあり、耕すことによって拡散することが分かりました。放射性物質が降ったからもうダメだというのではなく、しっかり見える化して向き合うことが重要だと感じました。
調査を通して分かったことは、田畑に放射性セシウムがあったとしても有機的ないい土であれば放射性セシウムが吸着されるということです。有機的で肥沃な土壌はマイナスイオンが強く、セシウムのプラスイオンを吸着固定するので根から吸い上げなくなるのです。私の畑も土からは放射能が検出されますが、米からはほとんど検出されません。やっぱりいい土づくりが大事だと改めて知ることができました。土と稲の力に福島の農家は助けられました。
チェルノブイリと同じ風景が広がっているのが浪江町です。10年以上放置された家の中は猪などに荒らされ、床も抜けてしまっていてとても住める状況ではありません。
多くの人に福島へ来ていただいて共に田んぼや畑に関わってほしいと思います。軍事力よりも自給力。生産者だけでなく消費者も一緒になって田畑を守り、食文化を守っておくそういう時代に突入したのかなと思っています。子どもから大人、障がい者まで多様な人がかかわることができるのが農業です。しっかりとした地域コミュニティーを皆さんとはぐくんでいければと思っています。
◇ 質疑応答 ◇
後半のパネルディスカッションでは、ご参加いただいた皆様よりたくさんのご質問をいただきました。その一部をご紹介いたします。
Q.山では放射性物質の循環が続いているというお話でしたが、その連鎖を断ち切ることはできないのでしょうか。
A.山は畑や田んぼのように耕せないのが問題です。程よい寒さで良質なクヌギの木があり、原木しいたけが有名でしたが全滅してしまいました。里山の再生に向けて間伐して生えてきた萌芽に期待していますが、原木しいたけはあと20~30年はできないと思います。
Q.風評被害はまだありますか。
A.福島のお米は震災後10年たっても約6割が業務用です。ホテルや旅館、コンビニなどのおにぎりに使われています。最近とあるコンビニのおにぎりがおいしくなったと言われますが、実は会津のコシヒカリを使っているからなんです。今まで新潟コシヒカリの次は福島のコシヒカリとランクがありましたが、今は福島のコシヒカリはランク外。正しく評価してもらえていません。また一度産地を変更してしまうと、安全になったからと言って産地を元に戻すのは難しいという問題もあります。
Q.震災後避難をしていた人で、戻ってきて農業をしている人はいますか。
A.一度避難をした後で戻ってきて農業をやっている人はぼちぼちいます。ただ原発周辺の浜通りはまだ1割しか戻っておらず、建物の復興は進んでも住んでいた人は戻っていません。除染作業員や原発の関係者がいるだけで、住民主体の町にはなっていないというのが現状です。
Q.今避難している人たちが再び故郷に戻ることはできると思いますか。
A.原発の10~20キロ圏内は帰れないのではないかと思います。また、震災から10年以上たって避難したところで新しいコミュニティーが出来上がっています。震災当時生まれたばかりだった子どもも小学生。戻りなさいと言われてもそう簡単に戻れる状態ではありません。
既に避難指示が解除されている所でも役所関係の人が多く、子どもがいる人は戻れない、戻らないというのが正直なところではないかと思います。
Q.福島の食べ物はどれくらい安全ですか。
A.福島のお米や野菜は安全に食べることができます。ですがキノコやイノシシの肉はまだ食べることができません。ホールボディーカウンターといって内部被ばくの有無やその程度を調べることができる機械があります。「昨日キノコ食べてきたんだ」という人を測定すると明らかに高く出ます。