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チェルノブイリ通信 No.54 (2)
2002年9月18日発行
・第1回ブレスト市移動検診報告
リクビダートルについて考える
ベラルーシからの手紙(最終回)
「アレクセイと泉」映画上映のお知らせと学習会の様子
のぞみ作品入荷のお知らせ・支援コーヒーとマトリョーシカセット
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リクビダートルは、今・・・

リクビダートルとは、原発事故事故処理班を意味するロシア語。
1986年4月26日、チェルノブイリ原発で起きた爆発は、放射能を日本にまで届いてしまうほど、すさまじかった。
事故当時、その爆心地とも言うべき事故現場での作業を余儀なくされたリクビダートルは、当然、大量の放射能を浴びることになった。
事故から16年が過ぎた今も、その放射能は、当時リクビダートルだった人々の生活に大きな傷を残している。

原発事故処理班について、考える
〜 1986年4月2日から今日までのこと 〜

報告 谷口 恵

チェルノブイリ支援運動・九州の移動検診で、心理面のケアをしてくれているリュドミラ・ウクラインカ(以下、”リューダ“で記載)の紹介で、私はあるリクビダートルのアパートを訪ねることができた。
放射能の充満する中、事故処理にあたったリクビタートル。自らの身をもって、火の中に投げ込まれる水となった人達。わたしはその本人を目の前にして何を聞いたらいいだろうか?どう会話をしたらいいのだろうかと少し緊張していたが、リュドミラ・パブロワさんは、明るい笑顔で迎え入れてくれた。
「おかまいなく」と伝えていたにも関わらず、お酒や料理を用意して待っていてくれ、「話しは食べた後にしましょう」と人なつっこい笑顔で言った。
おかげで、スムーズに会話を始めることができたが、想像していた通り、チェルノブイリ原発事故により一変してしまった生活の様子は、とても厳しいものだった。
今から、15年前に起きたチェルノブイリ原発事故において、当時軍の看護婦だったリュドミラさん(38)は、原発事故の被害者の手当に従事した。軍人であった夫アナトリー(53)も、リクビダートルとして現場に出入りする車の放射能除染作業、村の建物を壊す作業、村から出る人たちの持ち物を制限する作業に従事した。
事故当時、チェルノブイリから28キロ離れていたサービッチ村に住んでいたリュドミラとアナトリーは、放射能の危険性を誰からも何も知らされないまま、自ら希望して原発事故の処理に参加。原発に近づくにつれ、頭や喉に痛みを感じたという。
すでに、放射能は放出されており、屋外で作業した人の被曝がひどかった。屋外で作業した人達には、肝ガンやのど、喉頭ガンが多かったようだ。
その被曝量はどれくらいかわからないが、考えないことにしている。
次第に話しが家族の健康状態のことになり、過去のカルテを医療通訳の山田英雄さんに見てもらう。
リュドミラさん本人は、現在、甲状腺肥大が見られたが、山田さんによればさほど、問題ないとのこと。
夫のアナトリーさんは、脳出血、狭心症、自律神経失調症、また胆嚢の手術を受けているという。
2人の息子のうち、長男のアレクサンダー(18歳、事故当時3歳)は3歳のときに聴力を失った。「すぐに補聴器をつければ、言葉を覚えられたのに」とリュドミラさんは悔やんでいた。また、次男のアントン(12歳)にも甲状腺肥大が見られるという。
こうした状況と、チェルノブイリ原発の放射能にどのような因果関係があるのはは分からない。他のリクビダートルもたくさん死んでしまったが、原因は分からない。
 両親は、今もチェルノブイリ原発から30キロ以内のゾーンにある村で生活している。両親ともに健康状態は良く、リュドミラさんたちは、半年に1回は両親を訪れるようにしている。
村にバスは通っておらず、30キロゾーンの入り口で警察による検問を受けた後、村までの10キロほどの距離を歩いていかなければならない。
リュドミラさんは、話終えると、次々に各種証明書、当時の軍服姿の写真、村の写真、家族の写真などをすべてオープンに見せてくれた。

夫のアナトリーさんは少し離れた川へ釣り(仕事のうちだとか)に行っており、息子ふたりはガールフレンドのいるダーチャ(郊外別宅)に行っていて、話を聞くことはできないまま、私はリュドミラさんのお宅を後にした。
今回の聞き取り調査に同行したリューダが、帰り道の雪だるま号の中で教えてくれた、アナトリーさんの言葉がわたしの心に深く残っている。
「もし時間を戻すことができて、もう一度事故の前に戻ることができたとしたら、また事故の処理作業に参加しますか?」と聞いたリューダに対し、「もしわたしがやらなかったとしても、ほかの誰かがやることになったでしょう。それならば、もちろんわたしはまた参加します。」とアナトリーさんは即答したという。
リューダはわたしに「彼のような人を本当の英雄というのだろう。」と言った。
一緒に作業にあたった人達が次々に死んでいき、自分の子どもも聴力と言葉を失い、自分自身も体調がすぐれない、そんな中でのリュドミラさん、アナトリーさん一家の16年間はどんなものだったか、とても想像が及ばない。アナトリーさんのその言葉と、リュドミラさんの笑顔の奥にあるものを考えずにはいられなかった。

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