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チェルノブイリ通信 No.52 (7)
2002年3月17日発行
チェルノブイリに関わる人々
カーチャ医師を偲んで
のぞみ21の民芸品にまつわる情報
飯倉小学校訪問
「映画を撮りたい」 本橋成一監督
映画「ナージャの村」に寄せて
・走れ!雪だるま号
ベラルーシからの手紙
・ 募金をいただいた方々

走れ!雪だるま号
チェルノブイリ紀行 −パレーシアのきらめく星々−

文/ 三上錬子

 チェルノブイリ支援運動・九州による検診だけでなく、日本のチェルノブイリ支援団体が現地で活動する際にも貴重な移動手段として利用されている「雪だるま号」。その「雪だるま号」の働きを通して、様々な団体の活動をお伝えするのがこのシリーズ。今回は三上錬子さんからの報告をご紹介する。

 昨年の9月に、ベラルーシのモーズリ市を訪れた。モーズリ市は、チェルノブイリ原発から北へ80キロに位置する人口13万人の街である。この街に「パレースカヤ・ゾーラチカ」(パレーシア地方の小さな星)という少年少女音楽舞踊団がある。
 パレースカヤ・ゾーラチカの存在を知ったのは、一昨年(2000年)のことであった。
菅谷昭医師の橋渡しにより、99年に来日し、その可憐な歌と踊りで聴衆を魅了したという記事を読んだ。菅谷医師については、96年から5年半ものあいだベラルーシに滞在し、小児甲状腺がんの治療にあたったことで、すでに日本では広く知られている。
 一昨年の初秋に、ベラルーシのゴメリ市を訪問し、ゴメリ州立腫瘍センターで働いていた菅谷医師にお目にかかることができた。いろいろな話をうかがった中で、チェルノブイリの惨劇を不幸の箱に押し込めるのではなく、少しでもプラスの方向に転化し、未来を担う日本の子どもたちとベラルーシの子どもたちを、対等・平等の立場で交流させたいというのが、菅谷医師の強い願いであることを知ることができた。
 ゾーラチカの子どもたちは、昨年も来日した。猛暑の中、7月31日に総勢24人が来日し、長野県を始めとして、東京など四地区で公演をした。私は菅谷医師の思いに賛同し、東京公演の実行委員の一員として末席に連なった。子どもたちの公演は、踊りや歌の巧みさ、衣装の美しさ、そして豊かな表現力、芸術的センスなどで観客を魅了した。子どもたちの印象深かったことは、長野県でホームステイをしたこと、そして、東京ディズニーランドだったという。「おとぎの国・ヤポーニア」は、子どもたちの目にはどう映ったのだろうか。
 子どもたちや、代表のエレーナ・ペトローヴナ、会計担当のヴェーラ・ウラジーミロヴナと交流する中で、モーズリ市をぜひ訪問してみたいという思いが募った。8月中旬過ぎに、私はモスクワ経由でウクライナへ向かった。オデッサからキエフに行き、それからベラルーシのゴメリ市へ行った。さらに、ミンスクへ行き、モスクワ経由でキルギスタンのビシュケクへと飛んだ。そして、モスクワ経由でミンスクに戻り、ゴメリからモーズリ市へ行った。ゾーラチカの事務所や稽古場がある建物には、宿泊できる快適な部屋がある。そこに二泊した。そして、ゾーラチカの懐かしい、かわいい子どもたちと再会することができた。
 子どもたちは、放課後にやってきて、元気に、懸命に練習に励んでいた。2時間以上にもわたるレッスンは、けっこうハードなものであった。中には、未来のプリマ・バレリーナを思わせる子どももいた。エレーナ・ペトローヴナは「ダンスを教えているのはウチーテリニッツァ(先生)だけれど、私はムチーテリニッツァ(思い悩む人)よ」とジョークを言い、ため息をついていた。ゾーラチカの運営は、資金面など、さまざまな面で大変なようだ。だが、ヴェーラ・ウラジーミロヴナという有能で誠実な経理担当のパートナーの力を借りて、やりくりをしているという。エレーナ・ペトローヴナは、イタリア公演から戻った直後だったが、忙しい中でも笑顔を絶やさずに、心から私をもてなしてくれた。
 ゾーラチカの本部のある建物の中には、チェルノブイリ医療基金(CMF)の事務所があり、そこでは医療検診を行う事もできるようになっていた。
 ゾーラチカの事務局がある建物には、展示室もある。海外公演の際に、プレゼントされたものが展示されており、その中で最も多いものが、日本からのものであった。数々の日本を代表する品々の中に、立派なお内裏さまとお雛さまが一組あった。日本でそれを包装するのに、日本人は白い手袋をはめ、丁寧に包んでくれた事が驚きだったという。その人形の埃を掃うための柄の短い羽叩きが何を意味するのか分らずに、エレーナ・ペトローヴナはしばらくの間、それをお雛さまの横に立てて飾っておいたという。最近ようやくそれの用途が理解できたという、微笑ましい話もしてくれた。
 菅谷先生が日本へ戻る少し前(2001年3月)に、信濃毎日新聞記者の山口裕之さんが1年間の休暇をとって、モーズリ市へ来ていた。山口さんは、すでに2000年4月にモーズリを日本の子どもとともに訪問し、取材をしたという。
 山口さんの目的は、ロシア語の勉強とチェルノブイリ支援だという。CMFの事務局員として甲状腺検診活動の支援をしたり、ゾーラチカの子どもたちに日本語を教えたり、モーズリ市を訪れる日本人たちの世話をしたりと、大活躍をしていた。
 モーズリ市は、落ち着いた雰囲気の穏やかな町である。山口さんとかつてのゾーラチカのメンバー・オーリャの案内で、市内を見学した。この地域は泥炭地であるため、放射能が土壌にしみこみ、牧草を食べた牛のミルクがかなり汚染されていることをテレビで見たことがある。この美しい自然が放射能で汚染されていることを思うと、つらい思いにとらわれてしまう。ここに住む人々もまた、生涯、放射能汚染という恐怖を抱えながら生きていかなければいけないのだ。
 わずか4日間という短い滞在ではあったが、充実した毎日を過ごすことができた。帰りは、「雪だるま号」に乗ってミンスクへ向かった。この車は、チェルノブイリ支援運動・九州がベラルーシ赤十字に提供したマイクロバスである。若い運転手が「ミンスクから来たぜ!」と威勢良くやってきた。「雪だるま号」は、とても快適であった。ミンスクまでは、4時間足らずで着いた。
 私の旅は43日間、4カ国にわたった。主な目的は、チェルノブイリのリクビダートルへの取材であった。80万人ともいわれるリクビダートルたちの現状を知りたかったのである。チェルノブイリ支援運動・九州の関係では、ミンスクのリューダの助けによって、ふたりの女性のリクビダートルにインタビューをすることができた。また、ゴメリ市では、工房「のぞみ21」を訪問し、ナターシャ・ステパン夫妻と再会し、交流を深めることができた。
 チェルノブイリ支援運動・九州は、この先、リクビダートルへの支援活動をも行っていくことを検討しているという。どんな形であれ、多くの苦しみを背負っているリクビダートルへの支援を続けることは、大変重要なことだと思う。チェルノブイリの惨劇を私たちは決して忘れてはならないし、日本から、世界から原発をなくしていくようにしなければならないと、改めて強く感じた。  なお、パレースカヤ・ゾーラチカは、93年9月に、チェルノブイリ支援運動。九州の招きで、来日していることを「チェルノブイリとともに―10年のあゆみ」(チェルノブイリ支援運動・九州編)を読んで知ることができた。

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