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チェルノブイリ通信 No.52 (8)
2002年3月17日発行
チェルノブイリに関わる人々
カーチャ医師を偲んで
のぞみ21の民芸品にまつわる情報
飯倉小学校訪問
「映画を撮りたい」 本橋成一監督
映画「ナージャの村」に寄せて
走れ!雪だるま号
・ベラルーシからの手紙
・ 募金をいただいた方々

チェルノブイリ後を生きる子どもたち
ベラルーシからの手紙 第2話

力丸 邦子

昨年6月に第9回検診団としてベラルーシを訪れた矢野代表は、日本からの検診団が来ていることを聞きつけて尋ねて来た小さな少女クラウディアから「日本の文通相手に渡してほしい」と、プレゼントを預かりました。
日本に持って帰ったのはいいものの、つたない文字で書かれた名前と住所が読みとれない・・・
途方にくれていたところに、その「日本の文通相手」本人からご連絡がありました。
それが、力丸邦子さんです。力丸さんは、今までに3回子どもたちを元気づけるツアーに参加し、ベラルーシを訪れたとのこと。
子ども達のことをよりよく知りたい、とベラルーシの子どもたちとの文通を始められました。
プレゼントを矢野代表に託したのは、その小さな文通相手のひとりでした。
子どもたちひとりひとりからは、今のベラルーシの姿が見えてきます。
4回シリーズで、力丸さんのエッセイをご紹介します。

●手紙の途絶えたサーシャ●
サーシャは、「外国の人から手紙をもらったのは初めてだよ。ボクは嬉しい。ボクの手紙は何日くらいで届くの?日本のことを教えて。」と、喜びと好奇心いっぱいの手紙をくれた1人です。ていねいな活字体での読みやすい手紙でありました。
 サーシャからの手紙には、「ボクは頭が痛いのです。」という言葉がいつもありました。3通目の手紙でしたか、「ママは、伝統工芸である刺しゅうを作るところで働いていたけれど、ボクの具合がよくないので、働くのを辞めて家で少しばかり刺しゅうをしています。今、ママが刺しゅうをしているその傍で、ボクは手紙を書いています。」と書いてありました。病気であることは、とても可哀想であるけれど、こうして母親と共に時間を過ごせるその生活は、ある意味で幸せではないだろうか、とその情景を思い描いてみました。
 その年の暮れに、「ボクの体にはビタミンが必要なのに、食べ物を買うお金も、寒いのに洋服を買うお金もない」と書かれた手紙が届き、どうしてやったらいいのだろうと心を痛めた末に、ホーレン草やあさりのインスタントスープ、乾燥プルーンに杏を、セーターに包み込んで送りました。スープの作り方は絵入りで、"お湯八分目"を示しての悪戦苦闘のレシピです。サーシャは喜び、「おいしかったよ。セーターは気に入った。ボクにぴったりだよ。」との便りに、ヤレヤレと胸をなでおろしました。
 誕生日のお祝いが届いた時には、飛び跳ねている様子が見えるような喜びいっぱいの手紙をくれました。サーシャは、実にこまめに手紙をくれました。
 そんなサーシャからの手紙が、去年の夏を最後にピタリと止まっています。『頭が痛い』と書かれているうちに精神科医の診察を受けたと書かれるようになり、徐々に文字が変わり始めたように感じました。
 と、おととしの8月、びっくりするほど神経質な文字が並び、本当にサーシャが書いたものかと信じがたい手紙がきて、それっきりです。「サーシャ、お元気ですか?どうしていますか?」と、その後も私が手紙を送っていますが、何も返ってきません。(サーシャ、どうしているの!誰か、サーシャのことを教えて!)と叫びたい思いで、彼からの便りを待っています。

●アリョーシャの笑顔●
 サーシャから「お金がない」という手紙が届いた日に、もう一通、私の心を塞ぐ便りが一緒に届きました。アリョーシャからのものでした。写真を送ってから5ヶ月経っての手紙で、住所が変わっていました。アリョーシャ本人からではなく、母親からでした。
 「写真ありがとう。アリョーシャは喜んで見ていました」と始まり、「今、アリョーシャはゴメリの病院からミンスクの病院に移り、入院しています。状態は良くなく、その命は風前の灯火です」。
 風前の灯火....。どんなに辞書を引き直しても同じです。(風前の灯火って....風前の灯火よね)と、私は幾度もつぶやいて胸がつぶれる思いでした。
 アリョーシャとは、99年の夏に初めて会ったのですが、脊椎が曲がっていて、歩行も少し困難なようすでしたが、教室には1日おきくらいに出てきて、いつも笑顔を向けてくれていました。とても印象に残っている子どもです。母親からの手紙に、「どうしたらよいのか今の私にはわかりませんが、ただ、アリョーシャの回復を神に祈り続けます」と返事を出しました。
 その後のアリョーシャは、ゆっくりゆっくり元気になりだして、時には畑に出てママを手伝ったりできるようになりました。それでも本調子ではなく、2000年夏のサナトリウムには行かれないだろうと知らされていたのです。が、私が行った時には、なんとアリョーシャの笑顔がそこにあったのです。
 あのびっくりの日から、アリョーシャのママの手紙は13通になりました。

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