一枚の写真から〜エレナのおばあちゃん 矢野宏和
我ながら、いい写真だと思う。日頃、写ってればいいや、ぐらいの感覚でしか撮影しない私は、シャッターを切るとき、感情をこめたりすることはない。だが、この写真については、シャッターを切った段階で、感動してしまい、現像されるまでドキドキしていた。この写真をみる度に私はあるエピソードを思い出す。ある一人の少女と老婆に出会うまでの出来事を。
1998年6月。ベラルーシ共和国、ストーリン地区病院。
甲状腺の検診が行われている最中、私は通訳のアーラさんとともに病院を抜け出した。手には、ロシアの住所が書かれたメモ紙。エレナという少女の名前と、年齢を示すものと思われる16という数字。それ以外は何が書いているのか分からない。
その紙切れを「雪だるま号」のドライバー、アレックスに渡し、あとは天に任せた。
会えるだろうか。会えたところで、取材に応じてくれるだろうか。
1996年、甲状腺ガンの早期発見、治療を目指して始まったストーリン地区での検診。検診が始まってから二年が過ぎても、実際に甲状腺ガンの手術を受けた子どもたちの実態を知ることはできずにいた。
現場の声をもっとチェルノブイリ通信で届けるべきだ、と私は運営委員会で主張した。今のままでは、ストーリンの子どもたちが、「実際に甲状腺ガンの手術を受けたとき、どんな状況に置かれるか分からない。もっと、その様子を調べ、カンパを寄せている人たちに伝えないと」と言ってはみたものの、いざ住所を確認し、取材を始めようとしたところで、私は怖じ気づいてしまった。
いきなり訪れて話しを聞かせてもらえるのだろうか?それは患者のプライバシーに関わることでもあり、そんなことを伝える必要ないという医療関係者の意見もあった。
途中、何度か道を尋ねながら、「雪だるま号」は、そのアドレスの場所に着く。そこは、古びた団地が密集していた。
ベラルーシでは、菜園に囲まれた樹の家が一般的と思っていた私の目に、そこは異質な空間として映った。
エレナが住むその三階へと、埃っぽい階段を登っていく。空気がこもり、淀んでいるようで、息苦しい。その段階で、私はもう引き返したくなっていたので、呼び鈴を押しても返事がなかったとき、内心ホッしてした。
「誰もいないのでは、仕方ないな」と私はすんなり諦め、帰ろうと階段を下り始めようとしたとき、一人の青年が上がってきた。聞けばエレナの兄だという。そして、現在エレナは両親と離れ、祖母の家に住んでいることが分かり、その場で住所を教えてくれた。
再び、「雪だるま号」に乗り込む。小一時間はかかるというその道中、「なぜエレナが両親と離れて暮らしているのか」その理由を考えた。
チェルノブイリ原発事故後のベラルーシにおいて、甲状腺に異常が発見されれば、即それはガンと結びつけて考えられてしまう。そして、遠く離れたミンスクでの受診が必要になり、それだけお金と時間が必要になる。ゆえに、子どもだけでなく、その家族の生活が激変することになる。
それにしても両親と離れて暮らさなければならないとは。その境遇を思うと、胸が痛み、取材をためらう気持ちがさらに深くなった。
そんな私の心境とは裏腹に、辺りの景色は次第に光りに溢れていく。やがて湖畔の小さな村に到着した私たちを、一人の老婆が待っていてくれた。
エレナのおばあちゃんだ。
眩しいそよ風のなかで、まるで心を落ち着かせる調べが漂ってくるような、すてきな笑顔だった。すべてを受け止めてくる優しいおばあちゃんに、私は救われたような気持ちになった。
おばあちゃんと腕を組み微笑むエレナもまたそうだったのろう。優しいゆるやかな時間のなかで、彼女は生活の激変や甲状腺の手術にともなう精神的なショックを癒していったのだと思う。
きちんと整理された農具、手の行き届いた畑から、日々の丁寧な生活の様子が感じ取れる。典型的なベラルーシの佇まい。ここでの生活していれば、きっと身体も良くなると、おばあちゃんは確信を持って語る。
どうしたら、こんな包容力が培えるのだろう。突然の来訪にも関わらず昼食を準備しようとしてくれるその姿を、今後の自分の手本にしていこうと、そのとき私は一人、心のなかで決めたのだった。 |