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チェルノブイリ通信 No.60 (4)
2004年6月18日発行
 
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チェルノブイリ原発事故から18年
チェルノブイリ…いま私たちの問題として

河野 近子
 

 あの原発事故から18年。
 事故が起きた4月26日を迎えても、新聞やテレビであの出来事に触れることは、年々、少なくなっている。そんなに紙面が惜しいのか、「チェルノブイリ」という地名を「チェル」と略して表記されてしまうこともある。
 チェルノブイリ…。それはもう過去のことなのか。私たちの「今」とはもう関わりのないことなのだろうか。
 今一度、私たちの支援活動の起点となるチェルノブイリ原発事故について、それがもたらした被害について、踏まえておきたい。かつてチェルノブイリ支援運動・九州の運営委員として幾度となく現地を訪れた河野近子さんからのレポートをお伝えする。


チェルノブイリ原発事故から18年
 1986年に旧ソ連でおきたチェルノブイリ原子力発電所の事故から、18年の歳月が流れました。私たちの中ではすでに、はるか彼方の遠い過去の出来事として、記憶の引き出しの奥底にしまい込まれていることでしょう。
 しかし現実には原発事故とはそんな生易しいものではありません。なぜなら原発の造りだす放射能(死の灰)はとてつもなく膨大であり、その寿命たるや生半可ではないのですから。

チェルノブイリが放出した放射能は
 チェルノブイリ原発の爆発炎上事故では、広島原爆の800発分という大量の放射能が環境に放出されました。それもそのはず、平均的規模の原発が1年間運転を続けると、炉心には広島原爆1000発分もの放射能がつくられてしまいます。
 その放射能は100種類とも200種類とも言われますが、それぞれ寿命が違っていて、できたはしから消えていくような短い寿命のものもあります。反対にとてつもなく長い寿命を持ったものもあり、たとえばセシウム137は半減期が30年で、千分の一にまで減るためには300年もの歳月を要します。しかしそれで驚いてはいられません。核兵器の材料になることでも有名なプルトニウム239は半減期が2万4千年、千分の一にまで減るためには、なんと24万年もの時間を必要とするのです。その他にもストロンチウム90、コバルト60等々、大変寿命の長いものがあり、たかだか80年の寿命でしかない私たちの感覚からすると、永遠になくならないともいえる大変恐ろしいものです。
 このように原発が造りだす放射能の量は膨大であり、その寿命はとてつもなく長いので、一旦大事故がおこって環境に出てしまうと、取り返しのつかない破局的な事態を引き起こしてしまいます。

大量の放射能が奪い去ったものは
チェルノブイリ原発は2年間運転を続け、炉心に広島原爆2千発分もの放射能を抱えた大変な時期に爆発しました。広島原爆800発分ともいわれる想像を絶する大量の放射能が、爆発と、何日間も続いた炉心火災による上昇気流にのって上空へと昇り、放射能雲となって広がっていきました。その時々の風の向くままに西へ流れ北へと広がった放射能雲は、ソ連の広大な大地を汚染し、そこに住むすべての生きものを襲って激しく被曝させました。
 色も匂いもなく巻き込まれたことすらわからないけれど、強烈な放射線を発して生命体を傷付ける恐ろしい放射能。原発から遠く離れた土地に住んでいたため事故のことすら知らされず、全く気付かないまま放射能雲に襲われた人々も、吐き気や頭痛などにみまわれたといいます。
 事故現場では、殺人的な放射線の飛び交うなか文字通り必死の消火作業にあたった、消防士などの31人が急性の放射線障害で亡くなりました。しかし不幸中の幸いは、はき出された大量の放射能が、激しい炉心火災による上昇気流に乗って上空まで運ばれてから放射能雲となって広がったことでした。もし低空を流れていたら致死量の被曝をしていたはずの近傍の人々は、濃密な放射能雲に襲われるという最悪の事態を免れました。事故の形態が異なっていれば、何百人もの近傍の人々がばたばたと死んでいってもおかしくないほどの放射能量だったのです。

身体に与える取り返しのつかないダメージ
 それでも身体の不調を訴えて、事故直後、近傍の何千人もの人々が入院しましたが、かろうじて急性障害による死は免れました。
 しかし放射線に被曝したことによって身体に取り返しのつかないダメージを受けてしまいました。今度は一生を通して、ガンなどの晩発性障害に怯えながら生き続けなければなりません。その上、悪夢のような放射能雲が去ったあとには、汚染の大地が残されました。大地が汚染されたということは、そこから獲れる作物が汚染されるということであり、汚染した草を食べた動物が汚染されるということです。野菜も肉も牛乳も汚染されてしまいます。人々は汚染地に住み続けるかぎり、大地からの放射線を受け続け、汚染された食べ物を食べ続ける以外に方法はありません。
 事故後、それまでは限りなくゼロに近かった子どもの甲状腺癌が多発したことはよく知られています。18年たった今も当時子どもだった人の発病は増え続けていて、いつピークが来るのかさえわからない状態です。
 しかし決して被害はそれだけで終わったわけではありません。チェルノブイリは、遠い過去の出来事ではありません。現地の人々の被曝は、今も続いています。そして体調をこわし命を奪われた沢山の人々が、闇から闇へと葬り去られているのです。原発事故の被害を小さく見せたい国の方針によって、放射線被曝による発病とは認められないままに…。
 チェルノブイリのおセンチは14万5千平方キロメートル(日本の本州の6割)、そこに住み被曝し続けている人々は、590万人にものぼります。本来、そのすべての人を移住させなければなりません。
 しかしそんなことは実際には不可能なため、なかでも特に汚染がひどい土地の40万人を上回る人たちが、長年住み慣れた家を離れ知らない土地へと移住させられました。この人々は、いつ襲ってくるかもしれない病気に怯え慣れない土地でのストレスに曝されながら、今もそしてこれからもずっと、命の続くかぎり生き続けなければならないのです。
 たった1基の原発がたった一度起こした事故の被害がこうなのです。現在日本には、52基の原発が動いています。チェルノブイリの悪夢が日本で再現されないと誰が言えるでしょう…。 
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