第2回ベラルーシについて学んでみよう
チェルノブイリ支援運動・九州 運営委員・ロシア語通訳 山口 英文
今回はベラルーシとロシアの古代から中世にかけての歴史を簡単に旅してみましょう。ヨーロッパへの玄関口であるベラルーシですが、旧ソ連のヨーロッパロシアの中でもその歴史は最も古いようです。紀元前1000年、この土地に現在のスラブ民族の始まりとなる民族が住み始めたという考古学的な報告があります。これは文字や記録を残す文明がなかったために、遺跡と遺物等からの推定となりますが、ロシア・ウクライナ・ポーランドなどの人々もベラルーシの地域がスラブ民族の始まりの場所であるという認識を持っています。
ベラルーシ(ロシア)の古代は、伝承された神話の混じった歴史と、キリスト教伝来後との大きく二つに分けることができます。旧ソ連時代はキリスト教も様々な形で制限や迫害を受けましたが、ベラルーシ・ロシア・ウクライナの歴史でキリスト教を否定したというのは全体から見れば僅かな時間であって、現在のロシアではキリスト教は再び大きな力を持ちはじめました。
最近のニュースでも見られるようにプーチン大統領の宣誓式や各種儀式に美髭をたくわえ祭服を着て荘重で美しい祈りをささげるロシア正教の聖職者が出ているのをご存知でしょうか。ヨーロッパロシアの人々にとって正教の復活は政治と宗教の癒着というものでなく、精神的拠り所をどこに求めた際に、キリスト教にとって代わるものがないということなのかも知れません。
民間信仰や伝説で断片的に伝えられる古代ベラルーシの風土は、長い冬と命の芽吹く春、そして短い夏。取り入れの秋といったベラルーシの季節の流れとともに、森、熊、狼、そして大河や無数にある湖沼に宿る精霊や、森羅万象を司る神々と一緒に、厳しくも豊かな自然の中に生活していた人々の姿を伝えています。
ウクライナからベラルーシ地方を中心とした国の起こりに関わる歴史的な事件の1つが、リューリック(実在かは不明)というノルマン人=バイキングの来訪だと言われています。ベラルーシ地方を中心としてドニエプル・ドナウ・プリピャチ・ボルガ・レナ等の大河沿いで、部族間の抗争を繰り広げていたスラブ人達が、9世紀頃に「我々を治めてくれ」と、海の彼方ルーシの国に行き、彼が最初の王となり建国されたのが、現在のヨーロッパ・ロシアの母といわれるキエフ公国です。
ルーシという言葉は撥音から分かるようにロシアの語源ともなっています。ベラルーシを流れるドニエプル河、プリピャチ河はバルト三国を通ってバルト海に流れ込むニーメン河、西ドヴィナ河と連絡が可能で、古い都市はこれらの大河沿いにあることからわかります。鉄道が普及するまでは、船による内水路航路が、バルト海から黒海までをつなぐ安全で快適な大量輸送手段として利用され、現在もヨーロッパロシアでは大事な交通手段となっています。この水路網は東へはボルガ川で現在のウラル地方、北へはネバ川を経由してフィンランドへ、更には北海へも行けます。ロシア民謡で有名なボルガの船曳きの歌もここで生まれています。
キエフ公国とその住人は、地中海のギリシャや黒海のトルコ地方や、北のスカンジナビア半島、さらに東のロシア内陸部との広い活躍と交流で栄えました。同時に、これが当時の東ローマ帝国経由のヨーロッパの文化的影響を受ける要素ともなったのです。
我々の問題としているチェルノブイリ原発もプリピャチ河とドニエプル河の交わる付近にあり、この河を下ると黒海経由でドナウ川に入り西ヨーロッパにも行けるし、ボスポラス海峡を出て地中海からイタリア・スペインにも行けるのです。このように古代東欧の人々は河を利用した活発な交流を、暴風の心配のほとんどない安全な航海で実現していたのです。
日本のような小さな河とは違う、ゆったりと流れる河を、バイキングが海を経てヨーロッパ・ロシアの地にやってくる。事実であったとしたら日本の大和朝廷騎馬民族説とも通じるような話でもあります。
キリスト教伝来はこのような交流からビザンチン帝国より伝来されたと言われています。980年ごろにリューリックの子孫が正式にキリスト教に帰依したと言われています。彼は、イスラム教は酒が飲めないからルーシ人には受けがたい。カトリックは戒律が嫌だ。ユダヤ教は信仰しても国土を神から取り上げられる。最後にこれだとして正教を選んだという伝説があります。それに合わせて今のロシア語の特徴でもあるキリール文字が伝来。キリスト教の経典・賛美歌などが文字として記録され歴史も記録されるようになります。そして森林が開墾されて農業が産業として発達し深い信仰心に支えられ1年の半分近くを厳しい冬とつきあいながら、大地に黙々と働く農民気質が今の人々にまで受け継がれていきます。
180年にわたって12世紀まで、キエフ公国は、私達が想像するような当時の西欧の封建国家や、日本の平安・鎌倉時代のような律令制度や武家政治の国ではなく、緩やかな族長達の連合団体であったと考えた方が正しいでしょう。現在のカスピ海地方からキエフ公国の東部を脅かすトルコ系のポロベツ人という遊牧民の侵略、国の内乱、そして南西部ではイスラムのアッバース朝によるビザンチン帝国滅亡と同時に文化の手本でもあったビザンチン帝国との交流の中断。西欧では地中海交易をイタリア商人が活発化させてきた事に対してキエフ公国の水路交通は冬に行動が制限されることもあり、だんだんと衰えていきました。
そしてロシア中世の一大事件が13世紀に東のアジアから大地を揺るがす騎馬の音と共に現れます。わが国もおなじみのモンゴル帝国です。ジンギスカンの孫バトゥを司令官とする50万とも言われるモンゴルの侵略軍はあっという間に現在のモスクワ付近に侵攻し、東部の諸公とその軍を打ち破り、ついで南下して現在のベラルーシを蹂躙してウクライナに入りキエフを陥落して東ヨーロッパ全体を支配して、さらには西に進んでドイツ騎士団をも壊滅させます。そしてここにキプチャク汗国を作り現在のカスピ海沿岸を首都として支配します。スラブ人をモンゴル人が支配した歴史ではモンゴル・タタールのくびき(くびきとは牛車や馬車の牛馬の首につける枠状の農具の事)と言われています。しかしこのくびきという言葉は、白人優位とキリスト教絶対優位思想が根底にあるようで、モンゴル人の支配は信仰の自由を認め、土地支配という指向の無いモンゴル人は税さえを納めれば習慣や風俗を強制しない懐の深い緩やかな統治であったとも言い伝えられています。筆者はベラルーシでも「日本人はモンゴル人以来のアジア人だけど、西欧人に比べてなんとアジア人は優しい。特に日本人は見返りも無いのに遠いアジアからやってきて一生懸命してくれる。」と言われたので半分リップサービスとしても、こそばゆい気持ちがした体験があります。
日本の東北地方にムクリコクリといって恐いものをいう言葉が残っていますがこの語源が蒙古・高句麗と言われて残っているようにベラルーシにもモンゴル帝国の残した記憶が残っているようです。
今回はこのタタールのくびきという時代まで古代から中世までの歴史として横道に逸れながらざっと記してみました。
私達もそうですが、古代から中世の歴史は潜在意識のように私達の生活に含まれて思考、情感、文化というものを生み出す母体となっています。今回の記事で、ベラルーシの友人達の心の深い所に流れる共通の潜在意識というものを感じていただければと思います。
|