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チェルノブイリ通信 No.61 (5)
2004年9月24日発行
ベラルーシ旅日記
チェルノブイリ調査隊報告
ベラルーシの旅・チェルノブイリ調査隊報告
雪だるま2号関連報告
・チェルノブイリと関わる人々
手島雅弘チェルノブイリ写真展を訪ねて
チェルノブイリと関わる人々
ベルラーシの子どもたちと向き合う佐々木尚之さんの挑戦

 「これからチェルノブイリに取り組もうとしている長崎の人が事務所に来る」と聞いたとき、私はいったいどんな人が来るのかと、想いをめぐらせた。
 チェルノブイリの原発事故から18年が経つ。その後も人は地球上で絶えず核や放射能の問題を起こし、あらゆる命を脅かし続けている。それゆえ、 チェルノブイリの出来事はすでに過去の方へと押しやられ、人々の関心は薄れている。そんな中、例えばイラクやアフガンの問題に関心を持つ人は身近にいても、 チェルノブイリに関わっていこうと人は、こちらから働きかけない限り、そう簡単には現れない。極めて希なのだ。なぜ、今、チェルノブイリなのか。 やがて訪れて佐々木さんに、私はその疑問をぶつけてみた。その話を聞き終え、その場で原稿依頼して届けられたのが、このレポートである。
(編集・矢野宏和)

 私がベラルーシで得たものは、不思議な巡り合いと、5キロの脂肪、そして決してお金で買えない貴重な体験でした。しかし、私自身不思議でならないのは、 何故、ベラルーシへ行ったのか? 去年の今頃は、ベラルーシという国名すら知らなかったのに。今では、ベラルーシの被ばく者を支援する団体を作ろうとしているのですから。
 そもそもベラルーシとの出会いは、オリガというベラルーシの女性と知り合った事から始まりました。日本語が話せない彼女と私は、英語で意思疎通ができました。 互いの母国語は理解できないけれど、英語を共通語として話すというのは、英会話習得中の私にとって大変エキサイティングな経験でした。それから、 見知らぬ国ベラルーシに興味を抱き、インターネットで検索する夜が多くなりました。すると必然的にチェルノブイリの問題に出交わし、長崎と同じ被爆地である事を知り、 又、18年前に見たニュースを思い出しました。大変な惨事で、この遠く離れた日本にも放射性物質が飛散し、牛乳の安全性を危惧したと記憶しています。 そして、外務省の海外安全ホームページを見ると、ベラルーシでは、今尚、苺、キノコ類、乳製品は、放射能汚染の可能性があるから食べないようにと記されていたので、 私は驚きを覚え、すぐさま、前述の内容をオリガに聞いたところ、「何故?長崎は、原爆が落ちたでしょう。長崎はいつから安全になったの?」と問い返された私は、 「知らない。」としか答えられず、自分の無知に腹が立つ程恥ずかしい思いをしました。その後、私なりに原爆とチェルノブイリについて調べ、両者は、かなり性質も、 規模も違う事が分かりましたが、共通するところも多くあり、その中で私の注意を引いたのが、被ばく二世の問題だったのです。この時点で、私は、自分の目で現状を見たいと思いました。 今までの無知さをリカバリーする為にも。又、同時に、ベラルーシにビジネスチャンスは無いだろうかとも考え、中古車、電化製品、保険、不動産、飲食店、スーパー等について調べたい欲求にも駆られました。 すると、自然と一般市民の生活についても知る必要があります。それらの目的をもって私は、単身ベラルーシへ行くことになったのです。
 私は、4月1日から10日までミンスクに滞在しました。最初の3日間は一泊75ドルのホテルに泊まりましたが、この料金が20才代の事務員の1ヶ月分の給料と知り、 ワンルームのアパートを一日25ドルで借りました。一夜明けて、やっぱりホテルに戻ろうかなーと思う位、快適ではありませんでした。ま、ホテルにしてもボロアパートにしても、 夕食を済ませて帰って来れば、シャワー浴びて洗濯して眠るだけですから。我慢、我慢。病院訪問は、簡単な事ではありませんでした。何分、何の肩書きも後立ても無い個人なのですから。 そこで、日本大使館へ行き、協力をお願いしたところ、渡航前に外務省を通じ、ベラルーシ政府の許可を得なければならないので、今回は諦めて下さいとのこと。 諦める訳にはいかないので、オリガに頼んで、返事を待つこと3日。その間、市場調査をしたり、一人で気ままに市内見物したりして朗報を待っていました。
 そしてついに、現地のボランティア団体の協力で、第2子供病院の訪問が実現しました。子供達へのお土産として折り紙セットを20組と現地で買ったお菓子とジュースを段ボール2ヶ月分を持って行きました。 子ども達は、珍しい小さな東洋人に興味を示し、カメラを向けるとニッコリ微笑む少女や、ベッドから飛び出して写りたがる男の子、ささやかなプレゼントにも皆喜んでくれていました。 しかし、私は、あまりの多さに驚いていました。
 次から次へと病室を回り、最後に、特別に集中治療室に案内されました。そこには、大きなベッドに横たわる小さな子供らの姿がありました。カメラを向ける事にためらい、 ましてや、名前や年齢を聞く事などできませんでした。でも、その中の一人の少女の姿を、今私は携帯の待ち受け画面にしています。絶対に忘れられないし、何とか助けてあげたい、と強く私に思わせた少女。 帰国後、私は毎日のように子どもたちの事を話し、彼らの事を考えない日は、一日たりとありません。写真や映像では、感じられないものを私は感じ、ショックを受けました。 うまく言い表せませんが、自分の中で何か変化が起こったと感じました。何かしら、もどかしいような、罪悪感を感じているような妙な心もちでした。
 ミンスクを離れる日を迎え、オリガと友達らに別れを告げ、搭乗し、指定の席に座っていたら、前方から日本人らしい男性が、「あなた日本人?」と話しかけられ、 「はい。」と言うと、彼は、私の隣の席に座るなり、「こんなとこ、何しに来たの?」と聞かれ、ありのまま話すと、やおら彼は、名刺を差し出し、見ると、 「日本ベラルーシ友好協会 佐々木 正光」と書いてあるではないですか。思わず、「私も佐々木です。」と言い、互いに不思議な巡り合わせだと感心していました。 ウィーン到着までの間、ずっと話しずくめ。すっかり意気投合し、必然的にウィーンで一杯やる事になりました。しかし、一杯で済むはずもなく、かなり飲んでしまいました。
 佐々木正光氏の紹介で、帰国後、長崎大学医学部の山下俊一教授と知り合うことができ、チェルノブイリ関係の沢山の資料を頂き、とても参考になりました。 たった一度の思いつきの海外旅行で、貴重な体験と、多くの人達との出会い、そして、それが広がっていく事に本当に驚いています。そして、夜毎食べたロシア料理は大変美味で、 知らぬ間に5キロも太っていました。これには、誰もが驚きました。
 今後は、長崎の人達にベラルーシ、チェルノブイリのことを知ってもらうよう活動し、私の様に知らなかった人や、無関心な人達を仲間として増やしていきたいと思っています。 チェルノブイリ支援運動・九州の皆さんには、これからも色々と教えて頂く事になると思います。宜しくお願い致します。
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