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チェルノブイリ通信 No.61 (6)
2004年9月24日発行
ベラルーシ旅日記
チェルノブイリ調査隊報告
ベラルーシの旅・チェルノブイリ調査隊報告
雪だるま2号関連報告
チェルノブイリと関わる人々
・手島雅弘チェルノブイリ写真展を訪ねて
ノー・モア・チェルノブイリ
手島雅弘チェルノブイリ写真展を訪ねて

 手島さんとチェルノブイリ支援運動・九州との出会いは、「チェルノブイリに行ったつもり学習会」。 新聞の告知欄で見たこのタイトルが気になった手島さんは、半分疑いの気持ちを抱きながら来てくれたという。 それを聞いて、おかしなタイトルにしておいてよかった、と思った。

 手島さんの写真は、山里の廃校が生まれ変わった美術館『共星の里 黒川INN美術館』の2階に展示してあった。 「よく来たね!」手島さんは、いつもの少年のようなくしゃっとくずれる笑顔とかたい握手で迎え入れてくれた。 その場所はもう、わたしのよく知っているいつもの学校の教室ではなく、手島さんによって違ういのちを吹き込まれ、 しずかにわたしたしに語りかけていた。

手島さんは、これまで3回ウクライナを訪れた。きっかけは5年前の新聞。「旧ソビエト連邦で、今後年間に4〜5万人の人達が放射能の影響で死んでいく」 との記事を目にしたのが、始まりだった。「何故だ!」の想いが手島さんを突き動かし、その原因となったウクライナ・チェルノブイリ原子力発電所へと導いたのだった。
取材・文 谷口 恵(チェルノブイリ支援運動・九州事務局長)


ミサイルが飛んでくる?
 大きなパノラマ写真は、中央にチェルノブイリ原発、奥には大陸弾道弾のレーダー基地が見える。緑があふれ、川が流れるこの風景の中に、異様な大きさと 堅さでガンコに居座っている。写真でみるぶんには何の不思議もない景色だが、見えているこの場所には、見えない大量の放射能が充満している。
 手島さんは、ヘリコプターをチャーターすて上空からこの写真を撮影した。「もっと近くまでいってくれ」と注文すると、「ダメだ」という「どうしてだ、もっと近寄ってくれ」 すると、「ミサイルが飛んでくるからダメだ」と言う。原発の上を飛んだらミサイルが飛んでくる・・・?実は、それはパイロットが原発に近づきたくないがためのウソ。 今もチェルノブイリ原発上空には強い放射能が満ちている。「GO!GO!」「NO!」としばらく繰り返したが、結局それ以上近づくことをパイロットは拒み続け、 至近距離からの撮影はできなかった。

チェルノブイリ原発 3号炉
 「石棺」(事故を起こした4号炉は、コンクリートですっぽりと覆われているため、その姿からこう呼ばれている)に無数に入ったヒビから放射能を放ち続ける4号炉。 その隣では、3号炉が2000年まで運転を継続していた。手島さんのモノクロ写真が物語るその3号炉内部の様子は、建設された当時のままなのではないかと思われるほど、 旧式で単純な構造。(わたしは、昔のヒーローものの管制室や宇宙船の内部を連想した。)「近くで見たらサビ」の箇所もあるほどだ。炉心が納められたプールの中では、チェレンコフ光と呼ばれる不気味な光を放っていた。 「なんていう色かな・・・ブルーでもない、紫でもないすごい光。撮影しちゃいけないって言われたんだけど、ものすごい色だったよ。不気味な色。この世の色じゃない。自然の色じゃない。
 撮影を終え、3号炉を出ようと放射能測定器をくぐったその時、ランプが赤く点灯。「まずい!」撮影中に手島さんは、誤って水たまりに踏み込んでしまっていたのだった。
 2000年12月15日、手島さんはカメラのファインダー超しに、ウクライナのクチマ大統領によって3号炉停止のスイッチが押される、その瞬間を見守った。 手島さんの横で同じく撮影をしていたカメラマンによる写真は、歴史的瞬間として世界中を駆け巡り、世界中の人達はおそらく様々な想いをもってその瞬間を受けとめた。  しかし、稼動を停止した今でも多くの人たちがここで働いている。労働者たちは7年に渡って、少しずつ、クビを切られていくという。彼らは「これからの身の振り方をどうしようかと考えている」手島さんにそう語った。

プリピャチ 人の気配を消した町
 チェルノブイリ原発の労働者の町といえば、事故が起こるまではプリピャチ市であった。しかし、1986年4月26日を境に、ここはゴーストタウンと化した。 目に見えない、においも味もしない放射能。その存在を知らせてくれるのは、一瞬にして振り切れるガイガーカウンター(放射能測定器)の針と警告音だけ。 「あんまりピーピー鳴り続けるから、うるさい!って切っちゃったこともあったよ。」と無邪気に笑う。
 しかし、ガイガーカウンターだけではなく、手島さんの身体も確実に放射能を察知していた。「ボクの場合は、のどがいたくて、頭がガンガンいたくて、吐き気がして。 30キロ圏内であぶに刺されて、キズ跡がまだ残っているけど、かんでるの全然わからない。アタマがぼーっとしているから。そのままいたら死んでるかもしれないのね。 うちの奥さんが、調子が悪くなったらこれを飲むんだよ、って薬をくれていた。それを飲んで、3日目にはよくなった。「どうして、そんな思いをしてまで?」そうたずねると、 「やっぱり、風化させたくない。」手島さんの目元をがキリっと引き締まった。「日本でも原発は安全だ安全だというけども、100パーセント安全っていうことはないよね、絶対に。 人間が運営してることだから、絶対にヒューマンエラーはある。」折しも、美浜原発の事故が起こった直後。思わず深いため息をついた。

 プリピャチの内部は荒れて果てている。あわてて逃げた人達の残していった生活用品、子どもが胸に抱いていたであろう人形、壁にかかった1986年のカレンダー、 5月1日になっても避難命令が出されていなかったことを証明するメーデーの横断幕、微笑む家族の写真、向こうからおしゃべりしながら誰かが歩いてきそうなのどかな散歩道・・・ 時が止まってしまったような光景のその一方で、マンホールから白樺がたくましく空をめがけてのび続けている。
 プリピャチの文化会館には大量のガスマスクがあちこち山積みにされていた。「空気をすって体内被ばくしないようにと用意された。数が足りなくて大変だったみたよ。 親たちが子どものために奪い合いになった。」得体の知れない、姿の見えない危機に迫られた町の、止まった時間。その時、いったい人はどんな行動をとるのだろうか。わたしだったら・・・?  平穏な家族の日常と、突然の悲劇。対照的であっても実は隣同士にあることが数々の写真の向こう側に透けてみえて、わたしの生活と重なった。
 当然、プリピャチにあるものはすべてひどく汚染されている。それでも、今でも強盗が耐えず、外に持ち出されて売られているのだという。高濃度に汚染された物体は、 さらに自ら放射線を出して、周囲のものをも汚染する。1999年、キエフ市内で手島さんが出会ったある建物は、チェルノブイリから土を持ってきてそれを使って建設していたことがわかり、 建設中止のままになっていた。「先月電話で確認したら、放射能除去して、完成したと言ってた。どうやって除線したか知らないけど。今は、人が住んでる。考えられないよね。」

手島雅弘(Teshima Masahiro)
 株式会社スタジオクリエイションプラン 代表取締役
 スタジオキャパ 代表
 JPS(日本写真家協会)会員

  1951年 福岡生まれ
  1972年 東京総合写真専門学校卒業
       (株)電通本社 写真部にアシスタントとして従事
  1975年 独立 フリーとなる
  1982年 スタジオクリエイトプラン設立
  1996年 シルク・ドゥ・ソレイユ「アレグリア」写真展を
      「GAYA」、「ホテルシーホーク」にて開催
  1997年 スタジオキャパ設立
  1999年 「光の中の日本」The Heart of Japan 出品
  2003年 「柳川華恋」平野紘子 パンフラワー作品集撮影 (西日本新聞社)


〜通信62号へ続く〜
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