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チェルノブイリ通信 No.49 (3)
2001年3月10日発行
「〜原発事故から15年〜チェルノブイリからの報告」開催に向けて
発行から4年、もう一度振り返る
・作文集の作者たちは今・・・リュドミラチュプチクさんの紹介
現地を訪れる意味 チェルノブイリスタディーツアーの思い出

わたしたちの涙で雪だるまが溶けた
作文を書いた子どもたちの今

*「私は生きる」(p129)リュドミラ・チュプチクさん
 はじめて原子力発電というものの恐ろしさを感じたのは、高校二年の春。「危険な話(広瀬隆著)」を読んだときだった。地球の、というよりか自分自身の将来について、あれほど絶望したことはなく、私のなかには「反原発」への意志よりも人類への絶望感が残り、「読まなかったことにできないかな」と思ったりした。
 作文集「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」を手にするのは、それから五年後のことになるが、その時も「原発」から生じる絶望感は根強く残り、作文集を読むことにもためらいを感じた。
 それは、本当に偶然だった。たまたま開いたのは、一二九ページ。そこにはあどけない少女の写真と、「私は生きる」という題目があった。そして、文章は「こんにちは。私の知らない友よ」という明るい呼びかけから始まる。ためらいは消え、その後の文章を追った。
 一番、印象に残っているのが、次の一文だった。「(中略)恐ろしいことに、チェルノブイリは、私の人生に、私と同じ年頃のひとや、ベラルーシの全ての人々の心と体の中に姿をひそめ、長期間にわたって、困難で、厳しい試練を与えるでしょう。神様、この試練も、宇宙の生きとし生けるものの義務なのですね。その全てが、神様の光、善、太陽に近づくためのものと信じて生き続けます」
 この文だけでは、紋切り型の表現として受けとめてしまうかもれない。だが、この作文で描かれている少女の自然や故郷への想いのなかで、その一文にたどり着くと、彼女の意志の強さに圧倒されてしまうのだ。さらに、少女の一四歳という年齢が、原発の問題を知らなかったことにしようとしていた自分への自己嫌悪を引き起こす。
 少女の作文の多くは、愛してやまない森と故郷の描写に費やされる。登場する植物の種類は多様で、情景描写からは、そこに漂う香りや、風の匂いまで感じさせる。
 散歩を楽しむかのような柔らかい歩調で進む文章はしかし、その森に、「禁止区域!、家畜の放牧、キノコ狩り、イチゴ狩りは絶対にしてはいけません」と書かれた異様な立て札が現れるところから急転する。そこもまた、放射能に汚染されていたのだった。
 だが、彼女はそこを、「約束の大地」と言う。また、「小さな祖国」とも言い、「始まりの始まり、人生の喜びと、私をとりまく世界との出会いの出発点」とも言う。そして「自然を救うため、大地のため、人のため、できることは何でもします」と誓う。
 少女のそんな想いが込められた作文は高い評価を得て、一九九五年には、来日。翌年行われたスタディーツアーでは、日本の多くの若者が彼女の村を訪れ、交流の場を持つことができ、いつしか、彼女と日本のつながりは深いものになった。
 日本に来たとき、彼女はこう語っていたという。「日本は確かに豊だけど、私は自分の村が好き」
 日本に滞在中、特にホームシックになるほどではなくでも、彼女は胸中には、故郷の村と、そして豊かな森が広がっていたようだ。  少女は今、その愛してやまない故郷を離れ、首都ミンスクで生活している。
 はじめは、医者になりたいと思っていたが、その望みは叶わなかった。彼女が選んだ道は、教師。現在は、ミンスク国立教育大学の学生だ。
 一昨年の夏、私はミンスクで彼女と会うことができた。都会での生活も随分なれた様子だったが、やはり、「故郷の森が恋しい」という。ミンスクでも少し郊外に出れば豊かな森はあるが「ここの森ではだめ?」と聞くと、静かにうつむいた。実家には毎日のように電話をしているという。
 いずれ訪れるであろう帰郷の日は、彼女にとって夢の実現を意味する。「グリシコビッチ村に戻り、その母校の教壇に立つことが私の夢です」と彼女は語ってくれた。
 だが、それを夢と呼ぶべきか。後になって、私は「約束」という言葉が適切なような気がした。

文・矢野宏和 (チェルノブイリ支援運動・九州)

ブラジルで発行 作文集
「わたしたちの涙で雪だるまが溶けた」のポルトガル語版
その表紙に描かれた世界

一面に広がる白と薄紫の影。人の姿はなく、静かに光だけが降り注ぎ・・・

 昨年四月、作文集『私たちの涙で雪だるまが溶けた〜子どもたちのチェルノブイリ』のポルトガル語版第2版が出版された。
 この本は、チェルノブイリ支援コーヒーでおなじみの?ウインドファーム・ブラジル事務所代表のクラウジオ・剛・牛渡さんを中心とするボランティアたちにより出版された。以前に出版していたポルトガル語版第1版が完売して後、ぜひ第二版をとの周囲からの期待の声に応えての出版だった。
 内容は、子どもの作文や写真などの他、チェルノブイリについての解説などが新たに加わり、ベラルーシから遠いブラジルの多くのボランティアが編集に関わったという。
 作文集『わたしたちの涙で雪だるまが溶けた』は、ポルトガル語で『Bonecos de Nove e Chernobyl』「9人の人形たちとチェルノブイリ」と訳されている。表紙は、一面の雪原の写真が中央を斜めに走る線を堺に一点、右半分は荒いタッチの油絵風の雪原の姿に変わる。黄緑や黄色をわずかに混ぜたそのタッチは、羽根のようにも見える。雪影の薄紫が、光を反射し輝く雪の白と混じり合い、静けさのなかの決意めいた厳しさを感じる。
 私は昨年春、クラウジオ牛渡さんと、表紙デザインを担当したノエリ斉藤さんに偶然、ブラジル・クリチバ市の空港で一緒になり、表紙デザインの由来を聞くことができた。
 ノエリさんは長い髪とやわらかな笑顔が印象的な、ブラジル生まれの若いデザイナーだった。
 「デザインを考える前に、まず第1版の作文集を読みました。チェルノブイリに生きる子どもたちの声を聞いて、私はあふれる涙を止められませんでした。故郷を愛しベラルーシで生きてきた子どもたちが、やるせないほどの思いでチェルノブイリを見つめていました。希望を失わず生きる子どもたちの姿と、悲惨な事故の現実とのギャップが、私の心に染み入るようでした。」
 ノエリさんは『雪だるま』との出逢いをそう語り、この表紙デザインは子どもたちの静かな悲しみをイメージした言う。
 彼女が空港にいたのは、ちょうどその日、日本への留学へ出発するためだった。JICAの日系社会事業の研修生公募に合格し、関東でデザインを学ぶことになっているとのことだった。きっと今も元気に活躍していることだろう。
 『雪だるま』の本は現在、ベラルーシ語のほかロシア語、ドイツ語、英語、日本語、ポルトガル語に訳され、多くの人の目にふれている。作文集の出版を通して、多くの人がチェルノブイリと出逢い、つながりが広がっている。
 クラウジオ牛渡さんは、ポルトガル語版『雪だるま』のあとがきをこう結んでいる。
 スリーマイル島、チェルノブイリ、東海村。
 原子力の使用がこれらに次ぐ悲惨な事故を起こさないと、一体誰が保証できるだろうか。 (文・事務局 寺嶋 悠)

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