「ベラルーシの旅」から5年
西野 自由里さんにとっての、あの旅は・・・
チェルノブイリへのスタディーツアーから五年が経ちます。
ツアー参加者にとって、実際にチェルノブイリの被災地へ行き、人と出会うことは、大きな意味を持っていました。時の経過とともに、あの旅の思い出は、どう移り変わり、今を生きるなかで、どんな力を持っているのか。
ツアー当時、まだ高校生だった西野自由里さんの今をお伝えする。
父の「生きたお金を使って来い」との言葉から、行けるようになったスタディーツアー。あれからもう5年が過ぎた。
当時一六歳の私にとって現在進行中のチェルノブイリを見に行くことは、卓上、もしくは本でしか知りえなかった2次元での事故を、よりリアルな3次元の事故として見に行くという意味があった。まだ小さなころ、おぼろげながらにチェルノブイリとそのデッドゾーンの存在を知ったとき、地球上にそんな悲しい場所があるということに衝撃を受けた。そして、その旅で実際にその地を歩き、惨状を感じ、その空気を吸ってきた。たった3分しかその場にいることは許されなかったが、それ以上の多くの学びがあった。
チェルノブイリは想像を越えたあまりにも大きな惨事過ぎて、日本にいるだけでは信じることができなかったし、リアリティーが無かったが、確かに数年前まで人々が生活していた臭いを感じることで、現実としてのチェルノブイリ、そして、生活している人々に降りかかったチェルノブイリを、垣間見ることができた。
一見すがすがしいほど凛とした空気の中でたわわに実るりんごの木。廃墟と化した家に落ちていた息子から母への健康を祈るバラの絵葉書。そのりんごの木が、そこまで大きくなるまでの歴史と時間。健康を祈る手紙を書いた息子と、手紙をもらった時は元気であり、今は被爆者になっているはずの母親、両者の消息。それらを考えるたび、チェルノブイリの罪の大きさに圧倒される。そしてそれらの情景はリアルなチェルノブイリとして多くを問うている。
スタディーツアーから帰ってきて、高校生の時は全国高校生交流集会という、1000人規模の平和集会で、チェルノブイリとセミパラチンスクを考える分科会を開いたり、大学生になって学園祭でチェルノブイリの子供たちの絵の展覧会を開いた。また、山口県の上関原発是正の住民投票が行われる可能性も考えて北九州市にあった住民票を、実家の下関市に移す。これらの行動は、ツアーに参加しなければ、行うことが無かったかもしれない。
しかし、ツアーに参加した仲間たちのさまざまな活動とその行動力を風のうわさで見、聞きすると、いつも「忙しい」という言葉にかまけて色んな考えるべき問題を後回しにしている自分に負い目を感じたりもする。
以前から看護婦として国際協力活動を夢見ている私は、現在看護大学生となり、夢に一歩一歩近づきつつあるが、そういう意味で私はチャランポランになってしまったのかもしれない。今の私が問題意識に燃えていた中学、高校のときの私なら果たして「忙しい」という言葉にかまけていただろうかと、疑問に思ふ今日のこの頃であったりもする。
最後に、チェルノブイリを垣間見、考えるスタディーツアーは、進路の選択という意味でも、1つの大きな方向性を私に投げかけた。チェルノブイリ事故だけでなく、大地としてのロシア、ベラルーシを見てまたじっくりとこの地を見たいと思った私は2年前にシベリア鉄道に乗りその広大な台地に少し触れてきた。そして幻影を求めるかのようにして、去年は北海道を自転車で走ってきた。そして来年私は看護婦として北海道に行く。更なる夢を追いかけつつ。
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