チェルノブイリ後を生きる子どもたち
〜 ベラルーシからの手紙 〜 第1話
力丸 邦子
●言葉がみつからない●
今、私は言葉が見つからずにいます。9月18日、リュドミラから手紙が届きました。「...お手紙ください」と結ばれている手紙に、返す言葉がみつからないのです。
チェルノブイリ原発事故によって小児白血病や甲状腺癌になり、その手術後の子どもたちを元気づけようという呼びかけで、ミンスク郊外のサナトリウムを私が訪れたのは、97年の夏のことでした。これから始まるイベントに集った200人近い子ども達を前にして、日本人が並んで自己紹介を始めた時でした。会場の後方から小さな女の子が走り出てきて、いきなり私に手渡したのです。見ると、ベニヤ板のようなものを切って、そこに黒い木綿糸を通したペンダントです。その少女がリュドミラでした。ちょうど七夕さまの日で、その日から少女は私について歩いて、七夕飾りもよく手伝ってくれました。毎日のように紙片に手紙を書いて渡してくれました。
あれから4年後の去年の夏、リュー ダに聞いてみました。「あの時、どうして私に手作りのペンダントを渡したの?」と。答えはひと言、「あなたが気に入ったからよ」。どうやら、一目惚れされたようです。
毎年サナトリウムを訪ねるたびにリューダは美しくなっていって、私を驚かせました。宿舎にもひとりで訪ねてきては、言葉の通じない2人が向き合って身ぶり手ぶりで話し、時に辞書を引いての会話です。リューダの左手首には、ぶどう色の大きな痣があって、彼女は絶えずシャツの袖を引っ張っては、手をすっぽり隠すようにしていました。ミンスク市内に、母と妹と3人で暮らすリューダの将来の夢は、「パン屋さんになりたい」です。
あれから1年、明るく語っていたリューダに何があったのでしょう。届いた手紙には、「もうお金がなくなってしまい、洋服や靴はもちろん、食べ物も買えないのです。そろそろコートが必要なのに買えません。ママと妹と3人で田舎に行くことになりました。ようやく住む家が見つかったのです。けれど、ママの給料は軽いもので、洋服は買えません。そんな訳で新しい住所を知らせます。必ず手紙をください」。私はロシア語はまるでわかりません。辞書を引いてようやく読んだこの手紙に、どう答えたらよいのでしょう。
●教室の片隅に置いたノート●
ミンスク郊外での「元気出せ」交流が回を重ねる中で、年に1度会う。それだけのことで、どれだけの子どもたちを励ますことができるのだろうか。夏の間のサナトリウムから家に帰った子どもたちの中には、学校や地域の中で特別な視線を受け、寂しい思いで生活している子どもも多いと聞き、大事なことは、家にいる長い時間の中での寂しさや孤独感を紛らわせてやることではないだろうか、と思いが至った時、「そうだ、手紙を書こう」と決めたのです。
ロシア語は読めない、書けない、話せないと、ないないづくしの自分が、なんと無謀なことを始めたのか、と今にして思えば呆れてしまいます。サナトリウムの力丸教室の片隅にノートを一冊置いて、「よかったら、名前と住所を記してください」と、ひと声かけておきました。力丸教室に来た人も、他のクラスに来た人も混じって、なんと40人もの子どもがメッセージ付きで書き込んでありました。99年、夏のことでした。
日本に帰ってまず始めたことは、「私はロシア語はわかりませんので、もし手紙をくれるなら、活字体で書いてください。それならば、辞書を引いて読むことができます」というひと言を添えて、サナトリウムでの写真を送ることからでした。写真と手紙を受け取った子どもたちは、「まさか本当に手紙が来るとは思っていなかった」と、とても驚いたようです。
募金者からのメッセージ 一部
● いつもほんのわずかですが、少しでも役立たせてください。● 息の長い運動に頭が下がります。ありがとうございます。● 引き落とし制度があると忘れずに済みます。● 世界中の不幸をなくしたい。● 地味な努力の実ることをお祈りします。● 世界中どこでも平和で安全な生活、望みです。● チェルノブイリの皆さんの声を沢山聞きたいです。● 平和を願います。● コーヒーは好評でおいしく頂いています。● 必要なところへ使ってください。● 被災者の方々の一日も早い回復を心よりお祈りしております。● いつもほんのわずかですが、少しでも役立たせてください。● 息の長い運動に頭が下がります。ありがとうございます。● 引き落とし制度があると忘れずに済みます。● 世界中の不幸をなくしたい。● 地味な努力の実ることをお祈りします。● 世界中どこでも平和で安全な生活、望みです。● チェルノブイリの皆さんの声を沢山聞きたいです。● 平和を願います。● 幸せをお祈りしています。● 必要なところへ使ってください。● 被災者の方々の一日も早い回復を心よりお祈りしております。
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