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チェルノブイリ通信 No.69 (3)
2007年4月26日発行
癌早期発見・早期治療のもう一歩先に…
アリョーシャと過ごした2日間
・チェルノブイリ、そこに在る真実

福岡教育大学での講演会報告
活動報告会レポート  

チェルノブイリ、そこに在る真実

 ここで紹介するのは、チェルノブイリ原発事故から20年の節目を迎えた2006年、チェルノブイリ医療支援ネットワークの医療顧問でもある山田英雄さんが、被災地ベラルーシ・ウクライナを訪問された際に、目にし耳にした風景である。
 事故から長い年月が経過し、人々の記憶から忘れられつつある“チェルノブイリ”の最新情報を臨場感あふれる写真とともにお伝えする。

構成・文責:チェルノブイリ医療支援ネットワーク事務局

■汚染地域を訪ねて〜地図から消えた村〜

グバレビッチ村
地図から消えた村“グバレビッチ”の入り口

 ベラルーシ共和国ゴメリ州ホイニキ市(人口約25,000人、原発事故以前の半分になった)から車で20分のところに位置する“地図から消えた” グバレビッチ村。4月になると村のいたるところで雪解け水の湖ができる。チェルノブイリから20年、あの時と変わらぬ春がまた、グバレビッチ村にも訪れた。

 グバレビッチ村はチェルノブイリ原発から北西約50kmにある。原発事故後、放射能汚染地域に指定されたため、住民たちは強制的に他の地域へ移住させられた。

サマショール
グバレビッチ村に暮らす人々
右から2人目がナージャおばさん

 2006年4月、この“地図から消えた村”での調査を行うため、1週間ほど滞在した。ホームスティを受け入れてくれたのは、村で15歳の孫とともに暮らすナージャおばさん。“地図から消えた”という言葉が示すとおり、避難勧告が出されたこの村には人が暮らしていないことになっている。しかしナージャおばさんのように、事故後、疎開を命じられても、住み慣れた土地を離れることを拒んだ人や、移住先での新しい生活に馴染めず、もともと住んでいた土地へ戻ってくる人もいた。人々は彼らのことを“サマショール(わがままな人)”と呼んでいる。ここグバレビッチ村でも2006年現在19世帯の家族が生活を営んでいた。

■豊かな大地のめぐみ、自然とともにある暮らし

井戸
ナージャおばさんの家にある井戸
ごちそう
食卓に並ぶご馳走

 ベラルーシではよく見かける風景だが、ナージャおばさんの家も例外ではなく、その家屋の色鮮やかな塗装に目が奪われる。夜になるとウオッカを目当てに村の若者が顔を出す。地下には大量のジャガイモが保管されており、キュウリ、トマト、玉ねぎなど、ほとんどの農作物は自給自足である。ほかに、豚三頭、にわとり、うさぎも飼っている。庭には井戸があり、この井戸水で全ての炊事がまかなわれる。井戸周辺の放射能レベルは広島の3倍ぐらい。村の池周辺では測定器が振り切れる所もあった。自然に根ざした豊かな暮らしは、目にみえない放射能を浴びている。それは事故から20年を越えた現在も、である。

■放射能とともに生きることを選択した人々

 グバレビッチ村には強制移住後、家主を無くした人家のみが残された。事故から20年が経過した現在、こうした人家に旧ソ連の各共和国やベラルーシ国内の非汚染地域からの移住者が暮らすようになった。ベラルーシでは、事故後の汚染地域における復興対策として、汚染地域の労働者に対し給料面での優遇などが行われている。

 村の一角にカザフスタン共和国から移住してきた一家が暮らしていた。祖国での生活が苦しくなり、親類を頼って1998年にこの村へ来た。彼らも他の移住者と同じように、放射能に汚染されることを恐れていない。ウラン鉱山の近くに住んでいたので、放射能は怖くないという。

家族
カザフスタンからグバレビッチ村へ移住してきた一家

 祖国で民族紛争が勃発したり、安定した職に就くことができなかったりなどしたため、汚染地域での“安住”を求めてやってきた彼らにとっては、現実に目の当たりにしなければならない銃や戦争よりも、目にみえない放射能のほうがよっぽど気が楽なのかもしれない。

■20年目のチェルノブイリ 〜かつての原発労働者の町“プリピャチ”を訪ねて〜

原発
事故を起こしたチェルノブイリ原発4号炉家

 ドニエプル川より北東、チェルノブイリを望む。かつての原発労働者の町“プリピャチ”は1986年のその日以降、どうなっているのだろうか。

 プリピャチ市はチェルノブイリ原発から約3Kmの地点に位置する。事故が起きたその日は晴天で、市内の多くの人は買い物に出かけたり、公園で遊んだりと普段どおりの生活を過ごしていた。しかし避難後、彼らにその地での生活が戻ってくることは二度となかった。毎年4月26日、各地からかつての住民たちが帰ってくる。

プリピャチ
かつての原発労働者の町“プリピャチ”
プリピャチ
プリピャチ市内にある幼稚園のお昼寝ルーム

 プリピャチ市内にある幼稚園では、当時の掲示板や写真がそのまま残っている。アルバムに写っているこどもたちは、生きていればすでに20歳以上の成人になっている。今はどこでどのように暮らしているのだろうか。園内のお昼寝ルームも事故当時のまま、時だけが経過している。

■チェルノブイリの観光地化

 原発事故から20年。現在ウクライナ共和国キエフ市内では、旅行会社が企画した立入禁止ゾーンを訪れる観光旅行が人気を集めたり、映画のロケ地として依頼があるという。またプリピャチ市内では来訪者によるものと思われる落書きも目立つようになってきた。

プリピャチ
プリピャチ市内に描かれた落書き(人影)

 立入禁止ゾーン内では当然ながら、今でも高いレベルの放射能に汚染されている。20年前のあの日、放射能のみえない恐怖を身をもって体験したはずの我々は、そこから何も学ぶものはなかったのだろうか。

■チェルノブイリ原発4号炉の現在とこの先

新石棺
建設が予定されているチェルノブイリ原発4号炉の新石棺の完成予想図

 事故を起こしたチェルノブイリ原発4号炉は、“死の灰”の放出を防ぐために石棺で覆われた。しかし20年が過ぎた現在、その老朽化が進み、崩壊の危険性やひび割れから染み込んだ雨水による地下水の汚染も懸念されている。その対策として“新石棺”の建設が計画されている。現在の石棺ごと覆うアーチ形のもので、ウクライナ非常事態省の話では2010年を目安に完成が予定されているという。

■チェルノブイリが遺した負の遺産

ラッソハ村
事故当時、4号炉の消化作業にあたった軍用ヘリコプター
平和利用の原発の事故処理に、軍需兵器が使われた

 放射能汚染廃棄物処理場のあるラッソハ村。ここには事故処理に使われた軍用トラックやクレーン車、住民の搬送に使われたバスなどが混在し、解体されるのを待っている。20年が過ぎた現在でもなお、その放射能レベルは測定器が振り切れるほどの高さである。

 チェルノブイリから20年、節目の年ではあるが、決して終わりの年ではない。

 
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